笛を吹かない一秒
朝六時四十分、建設現場の入口に生コンクリート車が着いた。
打設開始まで二十分。現場監督は腕時計を叩きながら、交通誘導員の蓑田苑へ叫んだ。
「いつもの場所へバックで入れて。遅れたら全部固まるぞ」
蓑田は誘導灯を上げたが、笛を吹かなかった。
運転手が窓から顔を出す。
「進んでいいのか、止まるのか」
蓑田は車体ではなく、後輪の泥跡を見ていた。前夜の雨で入口の鉄板が数センチずれ、右端に黒い隙間ができている。大型車が切り返せば、後輪は避けても車体後部が振れ、歩行者ゲートの死角へ入る。そこでは早番の職人が次々とカードをかざしていた。
「停止してください。いったん前へ」
「時間がない」と監督が詰め寄った。
蓑田は一時停止線の位置へ立ち、職人の流れを止めた。次に運転手を降ろし、二人で入口から荷下ろし位置まで歩く。鉄板の隙間だけでなく、昨日なかった資材棚が曲がり角へ張り出していた。いつものバック進入では、棚を避けた瞬間に後部が人の列へ寄る。
道路側では通勤の自転車が増え始めていた。入口で長く待たせれば、車列を避けた自転車が歩道へ乗り上げる。蓑田は現場内だけでなく、門の外へもう一人を立たせ、車が動く三分間だけ道路の流れも区切った。
蓑田は手順を変えた。歩行者ゲートを三分だけ閉じ、車を前進で奥まで入れ、広い場所で向きを変える。監督には職人を別の仮入口へ回してもらった。切り返しは一回減り、車は予定より一分早く定位置についた。
運転手が降りて、鉄板の隙間を見た。
「笛を吹かれたら、たぶんそのまま下がってたな」
蓑田は答えず、ずれた鉄板へ赤いコーンを置き、補修が終わるまで入口の幅を狭めるよう記録した。次の車ほど慣れたつもりで入ってくるからだ。
蓑田は運転手と停止合図をもう一度確認し、誰が笛を吹いても自分の誘導灯だけを見るよう伝えた。
ポンプ車の音が高くなった。監督がようやく小さく礼を言う。
その直後、道路の角から二台目のミキサー車が現れた。
蓑田は誘導灯を持ち直し、今度も笛を吹く前に、後輪と人の流れを見た。