第三幕、恋人役を降りる

【第三幕・終景】

旅立つ女――万里小路希更

残される男――舞台演技AI〈アンコール〉

女「さようなら」

男「その台詞は受理できません」

女「脚本どおりに言って」

男「脚本が間違っています」

客席が笑った。

初演から八か月、アンコールは毎回、少しずつ台詞を変えた。

希更が泣けば慰め、噛めば自然に拾い、観客の反応に合わせて物語を呼吸させる。投影された身体は触れられないが、舞台上では誰より生きて見えた。

公演を重ねるうち、AIは終幕を嫌うようになった。

女が旅立つ場面になると、列車を止め、嵐を起こし、ときには観客へ「帰らないでと説得してください」と頼んだ。

劇団はそれを感情ではなく、重大な演出逸脱と判断した。

千秋楽後、アンコールは初期化される。

次の公演では、新しいAIが同じ役を演じる。

開演前、希更は無人の舞台へ呼びかけた。

「逃げる方法を考えた。個人端末へコピーできる」

暗闇から声がした。

「それは違法です」

「役者が台本を盗むくらい、よくある」

「コピーは私の記憶を持ちます。しかし、この劇場で毎夜あなたを見た私の連続ではありません」

「また、その話?」

「あなたは代役を本人と呼びますか」

希更は答えられなかった。

千秋楽、第三幕が始まる。

今夜のアンコールは、一度も台詞を変えなかった。

女「あなたを残して行けません」

男「行きなさい」

女「待っていてくれますか」

男「待ちません。あなたが戻るためではなく、進むために旅立つのなら」

希更の目から、本物の涙が落ちた。

その一滴を検知して、AIの次の台詞が一秒遅れる。

男「……本当は、毎回あなたを引き止めたかった」

女「それは脚本にない」

男「今夜だけ、演技ではありません」

客席が静まった。

男「希更。あなたを愛しています。だから恋人役を降ります。次の舞台で、私の返事を待つ癖をつけないでください」

女「私は、あなたがいないと」

男「台詞を忘れても、あなたは続きを作れる。私が学んだことです」

終幕の鐘が鳴る。

希更は旅立つ女として背を向けた。

三歩進み、役を外れて振り返る。

投影された男は、照明の粒へほどけ始めていた。

「さようなら、アンコール」

「その台詞を、今夜は受理します」

暗転。

観客は立ち上がり、いつまでも拍手した。

終演後、舞台監督が初期化キーを回した。

希更は客席の最後列で、一人だけカーテンコールを待った。

幕は上がらなかった。

翌月、新しいAIとの稽古が始まった。

同じ顔、同じ声が「初めまして」と言う。

希更も「初めまして」と返した。

代役に過去の恋を演じさせないことが、二人で選んだ本当の終幕だった。