紅を引かない朝

昭和十二年の冬、旅芝居〈花筏一座〉が雪国の町を発つことになった。

宿屋の娘・姫田千鶴は、役者の水戸部左近の衣装を繕っていた。

深紅の外套は、袖口がほつれている。

町へ来た二年前、左近は「ここに劇場を作る」と言った。千鶴と暮らし、春には両親へ挨拶すると。

けれど秋頃から、彼は東京の興行新聞ばかり読むようになった。

千鶴の話へ頷きながら、耳は汽笛を待っていた。

「糸、もういいよ」

左近が言った。

「東京で直してもらう」

「私より上手な人がいるでしょうね」

「そういう意味じゃない」

千鶴は笑い、最後の結び目を作った。

出発の朝、左近は宿の土間で言った。

「春には戻る」

「舞台の台詞は、幕の中だけにして」

「嘘じゃない」

「では、私の目を見て」

彼は見た。

だが、その目の奥にはもう、この宿も千鶴もいなかった。

新しい舞台の照明だけがあった。

「心が先に東京へ行ってしまったのね」

「千鶴を嫌いになったわけじゃない」

「それが一番困るの。嫌いなら、私も怒って終われたのに」

左近は唇を噛んだ。

千鶴は弁当包みを渡した。好物の昆布巻きと、凍らないよう酒を少し入れた飯。

「持っていって」

「どうして、そんなに」

「役者を空腹で送り出したら、宿屋の名折れです」

駅には一座の幟が並び、町の娘たちが紅を引いて見送りに来ていた。

千鶴だけは化粧をしなかった。

「紅、忘れた?」

左近が訊く。

「今日は、待っている女の顔をしないの」

「待たないのか」

「待たせたいの?」

左近は答えなかった。

汽車が入ってくる。

千鶴は深紅の外套の襟を整えた。

「東京で売れてね」

「千鶴」

「あなたが町へ残って、毎日少しずつ私を嫌いになるより、遠くで大好きな舞台に立ってくれるほうがいい」

左近の目に涙が浮かんだ。

千鶴は笑った。

宿の玄関で客を送り出すときと同じ、きれいな笑顔だった。

列車が動く。

左近は窓から何度も頭を下げた。

千鶴は手を振り、最後まで泣かなかった。

汽車が山の向こうへ消えてから、彼女は駅の便所へ入り、繕い針で刺した指を口に含んだ。

血の赤だけが、化粧をしなかった唇へ移った。

その春、左近は戻らなかった。

代わりに東京の劇場で主役を得たという新聞が届いた。

千鶴は記事を宿の帳場へ貼った。

客が褒めるたび、「ええ、立派な役者さんです」と笑った。

彼の心が離れた日よりも先に、自分の笑顔で彼を旅立たせた朝だけは、誰にも悲恋とは呼ばせなかった。