紅茶が冷める前に

婚約を解消した日の真琴は、自分が祐弥を嫌いになったのだと思っていた。本当は違う。結婚前から毎週呼び出され、未来の姑に家事を採点されても、祐弥が一度も隣に立たなかったことに疲れたのだ。

「母さんも悪気はないから」

その言葉を最後に聞いた夜、真琴は階段から落ちた。目を開けると、婚約後最初の顔合わせの日に戻っていた。

白い花模様のカップ。冷めかけたアールグレイ。晴江が薄く笑い、前と同じ台詞を言う。

「結婚前に、うちの味を覚えてもらわないとね」

一度目の真琴は「頑張ります」と答え、その日から台所に立たされた。今度はカップを静かに受け皿へ戻す。

「覚える前に確認させてください。私は祐弥さんの配偶者候補ですか。それとも、こちらのお宅の無給の研修生ですか」

晴江の笑みが固まった。

「冗談がきついわね。家族になるなら当然でしょう」

「では、祐弥さんも私の実家で毎週、父から家計簿と介護の試験を受けますか?」

祐弥が息をのんだ。前の人生なら、ここで真琴が空気を読んで話を引っ込めていた。けれどもう、破談を恐れて自分を小さくする理由はない。

「私はあなたと結婚したい。でも、嫌なことを嫌だと言った私を一人にする人とは婚約を続けません」

晴江がテーブルを叩く。

「祐弥、この子に礼儀を教えなさい」

同じ命令。前は彼が困った顔で真琴を見た。今度も視線が合う。真琴は助けを乞わず、返事を待った。

長い沈黙のあと、祐弥は母から家の鍵を取り上げた。

「母さん、今日は帰ろう。真琴に教える前に、僕が境界線を覚える」

それは二度の人生で、彼が初めて母親に向けた拒絶だった。

真琴は祐弥の返事だけで、すべてを許したわけではない。けれど最初の一歩を、自分ではなく彼が踏み出した。その違いなら、もう一度だけ見届けてもいいと思えた。

午後六時。前回ならスマートフォンに届いた晴江からの《婚約は白紙にします》という一斉通知は来ない。代わりに、祐弥から一件だけ表示された。

《今夜、二人のルールを一緒に作らせてください》

紅茶は冷めていたが、真琴は初めて、飲み干さなくていいと思えた。