縫い目の名札

椿木原智胤は、妻がミシンを踏む音を嫌った。

「昼間ずっと遊んで、夜に趣味を始めるな。俺は働いて帰ってきてるんだぞ。誰のおかげで飯が食えてる」

鐘ヶ江美砂緒は、子どもの制服のほつれを縫い終え、糸を切った。

やがて近所の母親から修理を頼まれるようになり、学校指定服の「直しにくさ」を記録した。ポケットの位置、成長に合わせて伸ばせる縫い代、車椅子でも着替えやすい留め具。小さな工夫を試作品へ積み重ねた。

智胤は、玄関へ布箱が届くたび「内職のゴミ」と蹴った。

一年後、制服メーカーの新製品発表会に、智胤は取引銀行の担当者として招かれた。壇上には美砂緒がいた。

「デザイン監修、鐘ヶ江美砂緒代表です」

彼女の考案した成長対応制服は、全国二百校で採用が決まっていた。修理を前提とした構造で、三年間買い替えずに着られる。メーカーは特許使用料とデザイン料を支払い、美砂緒の工房へ全修理業務を委託する。

初年度の受注額は三億円。工房では、育児や介護でフルタイム勤務が難しい職人を正社員として雇うことも発表された。

智胤は客席から言った。

「妻の趣味を会社が大げさに評価しただけです。家庭を優先させるので、代表は続けられません」

メーカー社長は眉をひそめた。

「家庭について決める権限が、あなたにあるのですか?」

発表会後、美砂緒は工房の新事務所へ智胤を呼んだ。机には離婚届、賃貸契約書、雇用契約書の束がある。

「子どもは俺の給料で育てた」

「養育費を払うのは、これからも親としての義務よ。でも私たちの生活は、もうあなたの機嫌に左右されない」

美砂緒の月額報酬は智胤の給与を上回り、工房には十五人の採用が決まっていた。

智胤は、子どもの制服の名札を見た。裏側には、美砂緒が考案した交換式の縫い目がある。

校長会から二百一校目の採用通知が届き、美砂緒が離婚届を差し出した瞬間、智胤が“内職”と蹴った縫い目は十五人の雇用をつなぎ、夫婦の糸だけがきれいに切れることになった。