置いていく標準語
薬袋は、転校すると決まってから標準語で話すようになった。
「そげんこと言わんでよ」が「そんなこと言わないで」になり、「ばり」が「すごく」になった。東京の学校で笑われないように、動画を見ながらイントネーションまで直した。
クラスの連中は最初、気味悪がった。
「薬袋、ニュースみたい」
「練習だから」
「怒ってる?」
「怒ってないよ」
「その『よ』が怖い」
転校前日の放課後、教室で送別会が開かれた。紙の輪飾り、机を寄せた菓子、黒板いっぱいの寄せ書き。薬袋は最後まで標準語を崩さなかった。
「三年間、ありがとうございました」
「こちらこそ」
「向こうでも頑張ります」
「その喋り方で?」
笑われても、薬袋は笑い返した。
帰りの会が終わり、荷物を抱えて廊下へ出る。みんながついてきた。昇降口、校門、坂道。いつもの分かれ道を過ぎても、誰も帰らない。
「もうええって」
薬袋が言うと、全員が止まった。
自分でも気づかなかった。昔の言葉が口から落ちていた。
「今の、録った?」
「録った」
「消して」
「標準語で頼んで」
「消さんね!」
笑い声が坂へ広がった。
薬袋は両手で顔を覆った。恥ずかしいのに、笑いが止まらない。
一番後ろにいた友達が、小さな封筒を投げてよこした。中には音声を保存した古いUSBメモリが入っていた。
『薬袋方言集・全四十七語』
昼休みや部活帰りに、こっそり録っていたらしい。
「盗聴やろ」
「資料保存」
「何の資料」
「お前が東京かぶれになったとき用」
薬袋は封筒を鞄へしまった。
引っ越しの荷物には、教科書も制服も詰めた。けれど声だけは、どこへ入れればいいかわからなかった。
坂の下で、今度こそ皆が立ち止まる。
薬袋は標準語で「じゃあね」と言うつもりだった。
口から出たのは、いつもの短い言葉だった。
「またな」
方言かどうかもわからないほど普通の声で、それだけ言った。
新しい町で何を話すようになっても、あの坂に置いてきた声だけは、誰かが再生できる。
そう思うと、薬袋は初めて、言葉を直さずに転校できた。