署名欄の左

戸祭航は、塩谷克之に四枚目の供述調書を差し出した。

塩谷は窃盗団の運転役だった。倉庫から盗まれた拳銃を車に積んだとする自白が、事件を一気に組織犯罪へ引き上げた。瀬田刑事課長は会見時刻まで決めている。残るのは、今日の確認調書への署名だけだった。

塩谷はペンを持たず、前の三枚を眺めた。

「戸祭さん。俺、いつから右利きになった?」

航は眉を寄せた。塩谷の右手首には古い手術痕があり、指がほとんど曲がらない。留置記録にも『食事、筆記とも左手使用』とある。だが、三枚の署名は右上がりで、最後の払いが枠の右へ伸びていた。

「左手でも、こう書く人はいる」

「いるだろうね。じゃあ、今見てて」

塩谷は左手で自分の名を書いた。紙を綴じる金具を避けるため、手首を外側へ逃がす。文字は枠の左に寄り、最後の払いも左下へ落ちた。筆圧の弱い右手で真似れば、前の署名に近くなる。

監視窓の向こうで椅子が鳴った。瀬田が聞いている。

「前の調書は、誰が書いた」

「文章は刑事さん。署名も刑事さん。俺は拳銃なんて見てない」

「窃盗には関わったんだな」

「それは認める。だから、あんたたちは拳銃まで載せても誰も困らないと思った」

航は黙った。拳銃が見つからなければ、署は広域捜査の失態を責められる。塩谷の供述があれば、未発見のままでも筋書きは完成する。瀬田はさっき、「枝の一つを整えるだけだ」と言った。

塩谷が笑う。

「俺みたいなやつの署名、誰が見るんだって顔だな」

「違う」

「なら、何を見る?」

航は三枚を重ね、斜光にかざした。署名の下に、同じ筆跡の練習跡がうっすら圧痕で残っている。最初の一枚で失敗し、上の紙を替えたのだ。

内線が点滅した。瀬田から『終了しろ』。

航は返事をせず、複写機で署名欄と圧痕を拡大した。鑑定依頼書の対象者欄に、被疑者ではなく「作成担当捜査員」と入力する。

塩谷の前に新しい白紙を置き、偽造された三枚を抱えて立った。

そして瀬田のいる監視室の机へ、鑑定依頼書を表向きに置いた。