翻訳者は二度書く
海外文学担当になって最初の大仕事は、ノア・ヴェイルの小説だった。
〈脚注を食べる街〉は、北海の孤島に住む覆面作家のデビュー作だという。原文は難解だが途方もなく面白い。著者は取材を嫌い、連絡は代理人経由の短い英文だけだった。
〈表紙に顔を出す気はない。文章だけ読め。――N・V〉
翻訳を任せた蓼科環は、対照的に礼儀正しかった。
「この作家、意地が悪いです。三ページに一度、翻訳不能な駄洒落を置いてくるんですよ」
環が質問を送ると、ヴェイルは即座に突き放した。
〈訳せないなら、訳者を替えろ〉
「絶対にきれいな日本語へしてみせます」
環は燃え、訳文は原作以上と評判になった。本は百万部を超え、文学賞まで決まったが、ヴェイルは濃霧で島を出られないという。授賞式には環が代理で立った。
選考委員の一人が、壇上で奇妙な質問をした。
「原文の第九章にある〈橋が箸を端へ運ぶ〉という一節ですが、英語では成立しない言葉遊びですね」
会場が静まった。
私は控室へ走り、最初に届いた原文ファイルを開いた。作成日時は、環の翻訳初稿より三日後。文書情報の作者欄には、消したはずの日本語が残っていた。
〈蓼科環〉
環は観念して、二枚の名刺を卓上へ並べた。翻訳者・蓼科環。作家ノア・ヴェイル代理人。どちらにも同じ電話番号が刷られている。
「ヴェイルは実在しません。私が一人で書き、一人で英訳し、それをもう一度日本語へ戻しました」
「なぜ、そんな面倒を?」
「三年前、同じ小説を新人賞へ送ったら、御社は『市場性がない』と返しました。でも海外で話題の未訳作品だと言ったら、会議を一日で通した」
ヴェイルの無礼な英文も、環の丁寧な抗議も、すべて同じ机から送られていた。
私は頭を抱えた。
「著者印税と翻訳料、両方受け取ったのか」
「一人二役ですから、仕事も二人分です」
受賞は取り消されなかった。作品がおもしろいことだけは、誰の役を演じても変わらなかったからだ。
翌月、社長は環へ続編を依頼した。
彼女は微笑み、契約書を二部差し出した。
「先生と訳者、それぞれにご署名をお願いします」