老犬の鼻先

家を出る前夜、娘は老犬の隣で眠った。

進学のための引っ越しなのに、父と母は最後まで喧嘩していた。

誰が学費を多く出したか。

娘が遠くへ行くのはどちらのせいか。

娘は犬の首へ顔を埋め、

「私がいなければ静かになるね」

と囁いた。

老犬が寝返り、鼻先が娘の鼻へ触れた。

次に目を開けると、娘は犬の体に、犬は娘の体に入っていた。

最後の昼寝で鼻を合わせた飼い主と犬は、夕暮れまで入れ替わる。

犬の体になった娘は、世界が匂いでできていることを知った。

父の靴には心配の汗。

母の袖には泣いたあとの塩。

玄関の段ボールには、娘が幼い頃から使った毛布の匂いがした。

二人は娘の荷物へ、本人に見せず小さな物を入れていた。

父は工具。

母は薬と裁縫箱。

どちらも、遠くで困ったとき自分を思い出してほしい匂いだった。

娘の体に入った老犬は、階段を二段上がっただけで座り込んだ。

人間の胸は、犬より複雑に苦しくなるらしい。

父母がまた声を上げると、犬は娘の口で吠えようとした。

「うるさい!」

二人が黙った。

老犬は言葉を上手に使えない。

それでも続けた。

「この子、夜、泣く。二人の間、におい、濃い」

娘は犬の耳で聞き、恥ずかしくなった。

毎晩、犬だけが知っていた。

父がしゃがみ、

「行きたくないのか」

と尋ねた。

老犬は娘の体で首を振る。

「行きたい。怖い。どっちも」

それは娘自身が言えなかった答えだった。

夕方、老犬は娘の体で散歩へ出たがった。

娘は自分の犬の足が、もう家の角までしか歩けないことを初めて知った。

毎日、元気なふりをして自分を見送っていたのだ。

二人でゆっくり坂を上った。

夕日が沈むと、魂は元へ戻った。

翌朝、娘は家を出た。

父母は駅まで一緒に来たが、喧嘩をしなかった。

老犬は玄関から動けず、娘は何度も振り返った。

「私がいなくても、ちゃんと二人に言って」

犬は答えず、鼻を鳴らした。

数か月後、老犬は眠るように死んだ。

娘は帰れなかった。

それでも最後の夜、父と母は犬を挟み、娘と映像通話をした。

犬の鼻先が画面へ触れた。

入れ替わりは起きない。

ただ娘は、遠くの部屋でも、家族三人の匂いを覚えている気がした。