老石工は壁を支えない
東砦の城壁が崩れ始めても、老石工ジグランは杖を置かなかった。
敵軍の歩行要塞を操るヴァルゴスは、操縦席からその姿を見下ろしていた。砦の守兵は逃げ、旗は折れ、壁の内側には白髪の老人が一人。腰ほどの高さの石を、鏝で直している。
「そこを直して何になる」
拡声魔法で笑うと、老人は壁を指で叩いた。
「昨日の雨で目地が痩せた。放っておくと崩れる」
「今、私が崩すところだ」
歩行要塞の肩砲が唸った。対城衝撃弾が胸壁へ入り、百歩分の石積みが一斉にせり出す。壁は大波のように老人へ倒れた。
土煙が砦を覆う。
ヴァルゴスは次の標的へ照準を移しかけ、手を止めた。
倒れたはずの石壁から、乾いた音が三度聞こえた。こつ、こつ、こつ。鏝で目地を均す音だった。
煙が薄れる。
ジグランは同じ姿勢で立っていた。腰を曲げ、左手で石を押さえ、右手の鏝を滑らせている。彼の頭上へ落ちた石材は、触れる寸前で細かな砂になり、足元へ静かに積もっていた。
敵軍の工兵たちが騒ぎ始めた。衝撃弾の記録板には命中も爆発も正常と出ている。逃げ道も空洞もなく、老人の立つ場所へ最大荷重が集中したことまで数値で残っていた。偶然という言葉を消したのは、攻撃した側が持ち込んだ計器だった。
「衝撃を逃がしたか」
ヴァルゴスは理屈を探した。石工なら、崩れる方向を読むことはできる。偶然できた空洞に入ったのかもしれない。
老人が顔を上げた。
「お前さんの砲は、力が散っている。石がかわいそうだ」
挑発だと決めつけたヴァルゴスは、歩行要塞の右腕を展開した。重力炉を拳へ直結する〈大地圧し〉。城壁ではなく地盤ごと沈める、二度と使う必要がないと思っていた切り札だ。
鋼鉄の拳が落ち、砦全体が一尺沈んだ。岩粉が空を覆い、敵兵さえ膝をつく。
それでも、鏝の音は止まらない。
煙の向こうでジグランは同じ姿勢のまま、最後の一筋を整えていた。
歩行要塞の拳には、老人の肩幅ほどの小さな窪みができている。しかもその中心には傷一つなかった。
百の砦を踏み潰したヴァルゴスは、操縦席の中で一歩退いた。