聖女ではなくサリア
魔王城へ来てから、サリアを「聖女」と呼ぶ者はいなくなった。
最初にそう呼んだ侍従が、魔王アルディオンの一瞥で三日間声を失ったからだ。
「彼女の名はサリアだ」
それ以降、誰も間違えない。
人間の神殿で、聖女という呼び名は鎖だった。祈れ、治せ、笑え。嫌だと言えば、聖女なのだからと押し切られた。
アルディオンは違った。朝食の薄粥に香草が入ると、サリアが匂いだけで匙を止めることを覚え、厨房からその香草を消した。
「私一人のために、そこまでしなくても」
「余の城で、おまえが毎朝不快になる必要があるか」
他の者には氷より冷たい魔王が、彼女の皿だけは自分で確かめる。優しさを恩として数えず、返礼も求めなかった。
ある日、人間の大神官が使節団を連れて現れた。
「聖女よ、帰還せよ。魔王を討つ使命を忘れたか」
サリアの指が震える。アルディオンは剣へ手をかけなかった。ただ、彼女の前に温かい白湯を置いた。震えたときは甘い茶より白湯がいいと、彼だけが知っている。
「私は帰りません」
大神官は聞き流した。
「洗脳されているのだ。魔王を倒せば正気に戻る」
「違います。私は自分で残ると決めました」
「聖女に私情は許されない」
その瞬間、玉座の背後で黒い炎が立ち上がった。城全体が軋むほどの魔力に、使節たちが膝をつく。
だがアルディオンは、サリアの代わりに答えなかった。
「もう一度、自分の言葉で言うか」
彼女が頷くまで待つ。
「私は聖女ではありません。サリアです。誰も討ちません。帰りません」
魔王はようやく大神官へ向いた。
「聞こえたな」
「神殿の所有物を返せ!」
アルディオンの目が完全に冷えた。
「人を所有物と呼んだ口で、神を語るな」
彼は国境を閉ざす命令書ではなく、サリア名義の滞在証へ印を押した。期限欄は空白だった。
「彼女は残ることも、去ることもできる。決めるのは毎日、サリア自身だ」
大神官がなお「聖女」と叫びかける。
魔王の声が大広間を震わせた。
「その呼び名を禁ずる。ここにいるのはサリアだ。そしてサリアの『帰らない』は、余の望みよりも、神殿の命よりも重い」