腕の内側の一滴
婚約披露の朝、侯爵令嬢の唇へ塗る紅が二本並べられた。
一本は宮廷化粧師が作った《火鳥の紅》。もう一本は、異世界へ来る前に美容部員だったフィオラが作った無名の紅だ。宮廷化粧師は笑った。
「田舎娘の泥色と比べるまでもない」
令嬢は日暮れまで千人の前に立つ。失敗すれば婚約そのものが笑いものになる。しかも火鳥の紅は、隣国で流行した希少品として既に金貨二百枚で契約されていた。フィオラの紅を選べば、宮廷化粧師の面目を潰すことになる。
フィオラが求めたのは、唇ではなく昨日から隠していた令嬢の腕だった。
内側には、二つの小さな円がある。火鳥の紅を一滴置いた円だけが赤く盛り上がり、輪郭まで熱を持っていた。無名の紅を置いた円は、肌色のままだ。
「昨日、同じ量を塗って布で覆いました。先に狭い場所で確かめる。それだけです」
宮廷化粧師は「腕と唇は違う」と叫び、火鳥の紅を侍女へ塗った。数分もしないうちに侍女は唇を押さえ、濡れ布を求めた。華やかな朱色の原料に混ぜた南方樹脂が、二人に同じ刺激を起こしていた。
化粧師は侍女の体質だと言い逃れた。そこでフィオラは、昨日試した十二人分の布札を卓上へ並べた。火鳥の紅では四人に赤い跡、無名の紅ではゼロ。数字を見た侯爵の手が、契約書から離れた。
フィオラの紅は、色こそ落ち着いた深紅だった。令嬢が塗り、温かい茶を飲み、笑い、薄布で押さえる。腫れも痛みもなく、杯の縁に移った色もわずかだった。窓辺では肌を明るく見せ、蝋燭の下では宝石のように深く見える。
披露の鐘が鳴る。
「間に合いません」と宮廷化粧師が言った。
フィオラは小箱を開いた。昨日の試験と同時に、安全だった配合で三十本を仕上げてある。令嬢だけでなく、母親と六人の侍女にも同じ紅が行き渡った。大広間へ入った一行の唇は、乾杯を三度終えても誰一人として乱れなかった。
帰還した令嬢は火鳥の紅を契約台から払い落とし、フィオラの小箱だけを中央へ置いた。
「婚礼の紅二百本。私の専属化粧師として作って」