臓器保険の解約日

樒原環の会社では、正社員になると予備肉体が一体ついた。

福利厚生欄には「完全健康保証」と書かれていたが、培養費は給与から引かれ、退職時には会社へ所有権が移る。環は深く考えなかった。三十二歳で膵臓を壊すまでは。

交換手術は一時間で終わった。

翌日から血糖値は正常になり、健康管理AIは「生産性回復」と祝福した。上司は病室へ端末を持ち込み、午後の会議に参加できるか尋ねた。

環は画面を閉じ、予備肉体の保管映像を開いた。自分と同じ顔の女が、透明な槽の中で眠っている。膵臓を抜かれた腹には新しい縫合線があった。

その後も会社は彼女の体を使った。営業部長の腎臓、役員の角膜、事故に遭った新人の皮膚。適合率が高いという理由で、環の予備肉体は「社内共用資産」に変更されていた。

「私のコピーなのに」

「所有者は法人です」と人事AIは答えた。「あなたは恩恵を受けました」

環は退職届を出した。

違約金は二千万円。払えなければ、将来の自分の臓器提供権まで担保に入る。同僚は無謀だと言った。母は、健康でいられるなら我慢しなさい、と泣いた。

それでも環は、透明な槽の女が少しずつ空洞になる夢を毎晩見た。

退職日の朝、環は社内放送を乗っ取った。予備肉体の使用記録と、役員だけが優先的に若い臓器を受け取っていた一覧を公開した。会社は彼女を訴えたが、三千人の社員が同時に保険解約を申請した。

制度は廃止されなかった。ただし、予備肉体は本人以外に使えず、成長した個体には独立の意思確認が必要になった。

環のコピーは損傷が多く、自立できなかった。それでも病院は彼女を廃棄せず、名前を与えた。環は毎週面会へ行き、本を読み聞かせた。

独立後に始めた小さな食堂では、社員証の提示で定食を安くした。

「体を会社に預けて働くな」

レジ横の札にそう書いた。

環は健康を取り戻した代わりに、安定した人生を失った。けれど、自分の体が自分のものだと初めて思えたのは、何も保証されなくなったその日だった。