自転車で来た令嬢

朝霧坂穂乃海は、雨の日も古い自転車で通学した。

籠は少し歪み、雨具も何度も縫い直してある。江波杏梨は送迎車の窓から彼女を見つけると、教室で必ず言った。

「バス代も節約? 駅まで三十分あるのに大変だね」

穂乃海は「運動になるから」とだけ答えた。

春、学校の近くに新駅が開業することになった。杏梨の父は地元議員で、娘は自分の家の働きかけだと吹聴した。

開業式当日、杏梨は来賓席へ座り、穂乃海には一般列の最後尾を指した。

「電車に乗れるようになって、よかったね」

ところが鉄道会社の社長が到着すると、真っ先に穂乃海へ傘を差し出した。

「お嬢さん、通学調査を一年も続けてくれてありがとう」

朝霧坂家は、県内の鉄道・バス・物流を束ねる企業グループの創業家だった。穂乃海は社長令嬢でありながら、運転手を使わず、自転車と公共交通で通学していた。交通弱者の不便を自分で記録し、新駅の位置や駐輪場の設計へ提案していたのだ。ノートには、雨の日に滑る坂、暗い交差点、車椅子で遠回りする道まで、三百日分の時刻と写真が残っていた。始発前の駅で働く清掃員や、終バスに間に合わない看護師からも、穂乃海は一人ずつ話を聞いていた。

社長が開業資料を掲げる。

「この駅の建設費の大半は、朝霧坂財団が負担しました。穂乃海さんの提案で、学生定期も値下げします」

杏梨の父は壇上で居場所を失った。自分の要望書は、完成後に送った祝辞一枚だけだった。

杏梨は小声で言う。

「でも社長令嬢なら、車で来ればいいじゃない」

穂乃海は濡れた自転車の籠を見た。

「車で通ったら、ここに屋根が必要だと分からなかったから」

その合図で布が外され、駐輪場全体を覆う大きな屋根が現れた。雨水をため、駅の植栽へ使う設備まで付いている。

駅長が最初の記念定期券を穂乃海へ渡し、列車がホームへ滑り込んだ。

古い自転車が新駅の先頭ラックへ収められた瞬間、杏梨が貧しさだと思っていた通学路は、町全体の未来を決めた調査路線になった。