舞茸を一枚ずつ
宮原侑吾は、八か月ぶりに目覚ましを平日の時刻へ合わせた。明日から、区立図書館のカウンターで働く。
前の会社では営業企画をしていた。ある朝、満員電車の中で息が吸えなくなり、次の駅のホームに座り込んだ。それから三か月休職し、退職した。求人票に「静かな職場」と書かれていた図書館へ応募したが、面接では、利用者対応も苦情もあると説明された。分かっています、と答えた声が自分のものではないように聞こえた。
休職した最初の一か月は、コンビニへ行くだけで動悸がした。図書館の採用面接へ行けた日は、帰宅してから夕方まで眠った。採用の電話を受けたときも、嬉しさより先に、もう逃げられないと思った。
居酒屋「雨灯」は、休職中に散歩の距離を伸ばして見つけた店だった。今夜も客は侑吾一人だ。
「明日、仕事なんです」
「そうか」
「行ける気がしません」
店主は何も励まさず、舞茸を小さな房に分けた。薄い衣をくぐらせ、油へ一つ落とす。細かな泡が一斉に立ち、ぱちぱちという音が雨のように広がった。きのこの深い香りと熱い油の匂いが混じり、揚がった房から白い湯気がほどける。
侑吾は明日の経路を検索した。始業は九時。家を七時四十分に出れば余裕がある。だが、電車が止まったら。息が苦しくなったら。制服を着たあとに動けなくなったら。考えるたび、目覚ましを解除したくなる。
店主は揚がった舞茸を、全部そろう前に一つだけ皿へ置いた。
「先に食え。次はまだ油の中だ」
侑吾は熱さに気をつけて端を噛んだ。衣が軽く砕け、その内側から湿った香りが強く出た。
明日一日を働けるかどうかではなく、八時四十五分に図書館の裏口へ着くことだけを決めようと思った。途中で苦しくなれば、一駅降りる。五分遅れそうなら電話する。逃げ道を残したまま、それでも家は出る。契約を続けられるか、利用者の声に耐えられるかは、まだ分からない。
二つ目の舞茸は最初より少し冷めていた。それでも衣は乾いた音を立て、奥には油とは違う、土に近い温かさがあった。