船は最後に現れる

塩谷絃は、古書喫茶「鉤括弧」の窓際で、異動承諾書を開いていた。

三年前にも、別の異動を断った。そのとき母は安心し、絃もこれでよかったと思おうとした。けれど辞退した部署の名前を見るたび、選ばなかった未来だけが、古い切符のように胸へ残っていた。

承諾書の期限は今夜九時。壁時計の長針が進むたび、残る選択もまた、自分が選ぶものだと重くなった。

転勤先は海辺の小さな支社だった。企画の仕事ができる。学生の頃から住みたかった町でもある。けれど実家からは特急で四時間になり、母のメッセージには、〈あなたまで遠くへ行ったら困る〉とあった。

辞退を選べば、たぶん誰にも責められない。絃はその安心を、承諾書の上で何度も指先に量っていた。

店主が置いたカップは、外側に模様のない灰色だった。持ち手の根元は長年の使用で艶が薄れ、指の当たるところだけ丸く白んでいる。

半分まで飲んでも、特別なものは見えなかった。

絃が母への返信を考えていると、店主がポットを持って近づいた。カップの残りを見て、注ぎ足すように傾ける。だが絃の視線が底へ向いているのに気づくと、何も注がず、ポットを静かに戻した。

最後の一口を飲むと、底から青い船が現れた。

爪ほどの帆船だった。何十年もスプーンに擦られ、帆の輪郭は半分ほど消えている。それでも船首だけは、カップの縁ではなく、その先を向いていた。

絃は空になったカップを両手で回した。外からは船の存在がわからない。飲み終えた人にだけ、行き先のようなものが残る。

会計で、店主は伝票を二つ折りにした。折り目の内側に印刷された店の住所が、青い船と同じ方角を向いている。店主は釣銭を置くと、棚のレコードを裏返し、波音から始まる曲の針を落とした。

絃は席へ戻り、母への返信を先に打った。

〈困ることは一緒に考える。でも、今回は行きたい〉

送ってから、異動承諾書の「承諾する」に印をつける。提出ボタンを押した瞬間、曲の中で汽笛が一度鳴った。

店主は振り返らず、空のカップへ水を注いだ。青い船が、また見えなくなった。