花の名前を言わない

 鴫原鶴乃は、花の名前をほとんど言わない人だった。

 花屋を四十二年も営んだくせに、「赤いのを三本」「白い小さいのを足して」としか言わない。藤森桐江が「これはラナンキュラス」と教えても、「覚えたら別れがつらいでしょう」と笑った。

 二人は二十代で店を始めた。

 親には共同経営者と説明し、近所には仲のいい従姉妹ということにした。店の二階で同じ食卓を囲み、風邪をひけば粥を作り、喧嘩をすれば一人が花を仕入れすぎ、もう一人が黙って全部売った。

 恋人だったことはない。

 少なくとも、言葉の上では。

 若い頃、桐江は一度だけ告白しようとした。

 閉店後、鶴乃が余った花で小さな花束を作ってくれた夜だ。

「鶴乃さん、私ね」

 そこまで言うと、店先で自転車が倒れた。二人で起こしに出て、戻った頃には花瓶の水が床にこぼれていた。

 拭いているうちに、続きは言えなくなった。

 明日も明後日も一緒にいるのだから、急がなくていいと思った。

 四十二年目の冬、鶴乃は病院で眠るように亡くなった。

 親族が荷物を整理し、桐江には「共同経営者として」店の帳簿だけが残された。

 最後のページに、見慣れない花の名前が並んでいた。

 リナリア――この恋に気づいて。

 アネモネ――あなたを愛します。

 白いゼラニウム――私はあなたの愛を信じない。

 どれも、あの夜の花束に入っていた花だった。

 最後に、鶴乃の丸い字で一行だけあった。

〈桐江が言わないから、私も怖くなった〉

 桐江は帳簿を胸に抱き、声を立てて笑った。

「名前、知ってたんじゃない」

 笑いは途中から泣き声になった。

 春、店を閉める日。

 桐江は売れ残った花を一本ずつ空の店内に並べた。赤いの、白い小さいの、黄色い匂いの強いの。

 そして、誰もいない作業台の向こうへ、四十二年遅れで言った。

「鶴乃さん。私はあなたの恋人になりたかった」

 窓から風が入り、包装紙がさらりと鳴った。

 返事の代わりに、名札のない花びらが一枚、桐江の手の甲へ落ちた。

 彼女はその花の名前を知っていた。

 けれど最後まで、口にはしなかった。