花火に消えた一文字
花火が上がる直前、彼女が僕の名前を呼んだ。
河原は人で埋まり、同じクラスの連中は少し前で場所を取っていた。僕らだけ、ラムネを買う列で遅れた。
「何?」
彼女は答えず、口元へ手を添えた。紺色の浴衣に白い花が浮いている。学校では髪を一つに結んでいるのに、その夜は首筋が見えるように上げていた。
もう一度、彼女の唇が動いた。
その瞬間、空が白くなった。
腹に響く音が遅れて落ちてきて、言葉は完全に消えた。僕に見えたのは、最初の一文字だけだった。
「す?」
彼女の目が大きくなった。
「今、『す』って言った?」
次の花火が上がる。彼女は慌てて首を振ったが、その否定まで音にさらわれた。
僕は考えた。すぐ戻ろう。少し待って。すごいね。好き。
ラムネの瓶を握る指に汗がにじんだ。答えが違えば笑えるのに、最後の候補だけは、違っていてほしいとも、合っていてほしいとも思った。
最後の二文字だけ、考えないようにした。
友達のところへ戻ると、誰かが写真を撮ろうと騒いだ。彼女は僕から離れ、女子の真ん中へ入った。笑っているのに、こちらを見なかった。
花火の間じゅう、僕は最初の一文字に追いかけられた。
終演後、河川敷の照明がついた。帰る人の波で、また彼女と二人になった。
「さっきの続き、何?」
僕が聞くと、彼女は巾着の中を探し、屋台でもらった紙ナプキンとペンを出した。
『聞こえなかったなら、なし』
「一文字は聞こえた」
『忘れて』
「無理」
彼女は紙を奪い返し、しばらく迷ってから、裏側に一文字だけ書いた。
『き』
僕は紙を見た。
「『すき』で合ってた?」
彼女は答えず、僕の腕をつねった。
そのとき、終わったはずの空に一発だけ花火が上がった。遅れて届いた大きな音に、僕は笑った。
「今度は僕の番」
彼女が顔を上げる。
僕はわざと花火の音が消えるまで待った。
「僕も好き」
静かな河原では、たった五文字が驚くほど遠くまで届いた。
彼女は紙ナプキンを二つに折り、巾着へしまった。帰りの電車で、僕らはほとんど話さなかった。
窓に映る彼女の口元だけが、何度も最初の一文字を作っていた。