蘇生を希望しない時刻

 椿井理一が目を覚ましたとき、妻の碧乃はベッド脇で泣いていた。

「本当に、よかった」

 理一は胆石の内視鏡手術を受け、一泊だけの予定で入院していた。ところが深夜、突然心停止を起こし、集中治療室で三日間眠っていたという。

「先生が気づくのが遅かったら、危なかったって」

 碧乃は理一の手を握った。

 退院前、医師から経過記録の説明を受けた。

 二十二時十七分、家族面会。

 二十二時三十二分、妻持参の飲料を摂取。

 二十三時四十八分、致死性不整脈。

 二十三時四十九分、心肺蘇生開始。

「飲料から、トリカブト由来の成分が検出されました」

 医師は言った。

 碧乃は、道の駅で買った薬草茶だと説明した。製造元を調べてもらえば、混入事故だと分かるはずだと主張した。

 理一も、そう信じようとした。

 しかし記録の最後に、見覚えのない書類があった。

〈心肺停止時、蘇生処置を希望しません〉

 署名欄には碧乃の名。

 記入時刻は二十二時四十分だった。

 心停止の一時間以上前である。

「どうして、こんなものに署名したの」

 理一が尋ねると、碧乃は顔を伏せた。

「看護師さんに、念のためと言われたの。手術のあとだから」

 担当看護師は首を振った。

「胆石手術の患者さんに、こちらから蘇生拒否を勧めることはありません。奥様が用紙を求められました」

 碧乃は、勘違いだったと泣いた。

 若い当直医が書類を電子カルテへ取り込む前に急変が起き、存在を知らず蘇生した。もし数分早く登録されていれば、理一は処置されなかったという。

 退院の日、病院の相談員が理一を一人で呼び止めた。

「もう一つ、確認があります」

 碧乃の通話記録が警察へ提出されていた。

 二十二時四十二分、葬儀社へ資料請求。

 二十二時四十四分、生命保険会社へ死亡保険金の必要書類を照会。

 二十三時五十一分、病棟から心停止の連絡を受ける。

 相談員は静かに言った。

「奥様は、あなたの心臓が止まる一時間前に、死亡後の手続きを始めています」

 病室の外で、碧乃が退院用の薬を受け取っていた。

 理一の分ではない。

 彼女自身の睡眠薬だった。

 薬剤師へ、こう尋ねる声が聞こえた。

「これ、飲み物に混ぜても味は変わりませんか」