蛙が鳴くまで待つ

 江波戸慶史は、東京で農業用アプリを作っていた。

 土壌の水分、日照、気温。数字を集めれば、畑は効率よく管理できるはずだった。けれど会議では農家の顔よりグラフを見る時間が長く、慶史はある日、自分が土の匂いを知らないことに気づいた。

 移住先は、棚田の残る谷だった。

 借りた古民家の裏には小さな田が一枚つき、石積みの水路はあちこち崩れていた。慶史は早速、水位計と通信機器を取り寄せた。

 隣田の老人は箱を見て言った。

「それ、蛙よりよく鳴くか」

「異常があれば通知します」

「蛙は水が来れば鳴くぞ」

 冗談だと思い、慶史は笑った。

 田植え前、水路へ水を通す日が来た。

 センサーは正常なのに、田へ水が入らない。慶史は画面を更新し続けた。

「そこじゃない」

 老人が鍬の柄で上流を示した。

 落ち葉と泥が、石の隙間を塞いでいた。

 二人で水路へ入り、手で泥をかき出した。冷たい水が長靴へ入り、指の爪まで土色になる。通信機器より先に、石の重さと水の向きを体が覚えた。

 詰まりが取れると、細い流れが一気に田へ走った。乾いていた土が黒く変わり、夕空を映し始める。

 慶史の携帯が遅れて通知音を鳴らした。

〈水位が上昇しました〉

「知ってるよ」

 思わず笑うと、畦の草むらから一匹、また一匹と蛙が鳴き出した。

 夜、老人が持ってきた山椒味噌を焼きおにぎりへ塗った。

 囲炉裏代わりの小さな火鉢で炙ると、焦げた味噌と米の香りが部屋へ広がる。窓の外では蛙の声が重なり、水路は暗い庭を絶えず流れていた。

 慶史はアプリを捨てたわけではない。

 ただ、朝は数字を見る前に田へ出るようになった。水の冷たさ、風の向き、畦の柔らかさを確かめ、そのあとで画面を開く。

 田植えの日、センサーは正しい水位を示した。けれど慶史が安心したのは、夕方、泥の中から最初の蛙の声が聞こえたときだった。

 老人は帰り際、泥のついた苗を一本だけ軒下へ置いた。慶史は空き瓶へ挿し、数値のない緑をしばらく眺めた。

 古民家の台所には焼きおにぎりの香ばしさが残り、濡れた足袋を乾かす火のそばで、明日を急かさない夜がゆっくり深くなった。