行って、のあと
空港行きの社用車が出るまで、十分しかなかった。
璃子は一階ロビーで、奏汰のデスクに残っていた観葉植物を抱えていた。
「それ、持ってきたの?」
「水やりを頼まれただけ」
「俺、頼んでないけど」
海外事業部へ奏汰を推薦したのは璃子だった。能力も語学も、彼がいちばんだった。二年間のシンガポール赴任は、間違いなく彼の将来になる。
だから好きだと言えない。口にした瞬間、彼が辞令を迷うかもしれない。自分の感情で彼の選択肢を狭めることだけはしたくなかった。
二人で立ち上げた新サービスは、失敗寸前から海外案件へ育った。奏汰が徹夜明けに「次は現地でやりたい」と言った顔を、璃子は覚えている。推薦欄へ名前を入力した夜、送信ボタンを押す指が震えた。翌朝、奏汰は何も知らずに彼女へ菓子パンを半分くれた。ロビーの柱には送別寄せ書きが貼られていたが、璃子の欄だけ空白だった。書けば、たった十五文字にも本音が滲むと思った。
「行って」
璃子は植物を押しつけた。
「別れの言葉、それだけ?」
「赴任なんだから、ちゃんと行って」
奏汰は鉢を抱えたまま動かなかった。玄関の向こうで運転手がトランクを開ける。あと七分。
「推薦したの、璃子だって聞いた」
「適任だったから」
「俺を遠くへやりたかった?」
「行って」
二度目は少し強くなった。
「そういう質問を今しないで。止めてほしいみたいに聞こえる」
「止めてくれたら、考える」
「考えないで」
「どうして」
「私を理由にしないで」
ロビーの時計が秒を刻む。奏汰は困ったように笑った。
「璃子は、俺の理由になりたくないんだな」
「今は」
「帰ってきたあとなら?」
逃げ道を塞ぐような聞き方だった。
璃子は社用チャットを開いた。三か月前から、奏汰の通知だけをミュートにしていた。緑色のスイッチを戻す。
「行って」
三度目だけ、声を低くした。
「帰ってきたいと思ったとき、会社以外にも連絡できる場所を残しておくから」
奏汰は何も言わず、植物を車へ積んだ。
発車直前、璃子の個人携帯に、初めて彼の私用番号から着信が入った。彼女は通話ボタンを押し、車が見えなくなるまで、何も言わず彼の呼吸を聞いた。