補聴器の電池

祖父の仙市は、補聴器の電池交換が苦手だった。

小さな丸い電池を指でつまめず、いつも孫の依澄に頼む。

「これ、裏表どっち」

「平らなほうが上」

依澄は台所の明るい場所で交換する。蓋を閉じると、仙市は耳へ入れ、指を鳴らした。

「聞こえる?」

「お前の声が大きすぎる」

毎回同じやり取りだった。

冬の朝、電池を替えても音が戻らなかった。依澄は焦り、説明書を読み、何度も入れ直す。

仙市は黙って窓の外を見ていた。雪が庭木へ積もり、音の少ない朝だった。

よく見ると、補聴器の細い管に水滴が溜まっていた。昨夜、寒い部屋から暖房の前へ移ったせいらしい。乾燥ケースへ入れ、昼まで待つことにした。

音の届かない祖父と、二人で昼食を作った。依澄は身振りで大根を切る厚さを訊き、仙市は指二本分を示す。味噌汁の湯気が上がり、大根の甘い匂いがした。

午後、補聴器は元に戻った。

「何か話せ」と仙市が言う。

依澄は考え、鍋の蓋を少し持ち上げた。味噌汁が煮える音を聞かせる。

「いい音だ」

翌週から、依澄は電池交換のあと、声ではなく何かの音で確認した。薬缶、新聞、庭の鳥。

春のある日は、窓を開けて風鈴を鳴らした。仙市は目を閉じ、聞こえた合図に頷く。新しい電池の金属臭と、昼の味噌汁の匂いが、静かな耳元に残った。

仙市は乾燥ケースへ入れる時刻を、冷蔵庫の暦に書くようになった。依澄がいない日にも自分で管を外し、小さな蓋を閉める。指はまだ不器用だが、急がなければできる。ある夕方、依澄が訪ねると補聴器を外した祖父が台所にいた。大根を切る包丁の音だけは身体へ響くから分かるという。二人で鍋を見つめ、湯気が窓を曇らせるまで待った。補聴器をつけたあと、最初に聞こえたのは依澄の声ではなく、煮えた大根が鍋の中で転がる柔らかな音だった。

依澄は風鈴を外す秋の日、最後に一度鳴らした。仙市は縁側から聞き、指で丸を作る。管を乾かす箱の中まで、金属の余韻と干した大根の匂いが入った。