西のカーテン
「西のカーテンは、日暮れ前に閉めます」
侍女ネージュは、若きレオンハルト公の書斎へ入るたびそう告げた。
机の埃を払い、羽根ペンを揃え、冷めた珈琲を下げる。公が戦略書を読みふけって返事をしなくても、彼女は決まった時刻に窓辺へ向かった。
その日、夕日は血のように赤かった。
向かいの鐘楼に、黒い外套の男が一人立つ。千歩先の鳥の目さえ射抜く《墓標弓》の使い手だった。男が弦を引き絞り、魔力を帯びた矢が夕焼けを裂く。
レオンハルトには、矢が見えた。
死が一直線に自分へ向かってくるのも分かった。
だが椅子から立つ時間はなかった。
ネージュがカーテンの紐を引く。
厚い布が、さらりと窓を覆った。
矢は来なかった。
代わりに遠い鐘楼で、何かが石床へ転がる乾いた音がした。カーテンの裾から一本の糸が、夕日の残光を受けて銀色に光り、すぐネージュの袖へ戻った。
彼女は窓を開けてもいない。
ただ紐を引いた指先で、千歩の距離を渡る鋼糸を操り、飛来した矢を縦に裂き、そのまま射手の弓弦と意識だけを断ったのだ。
レオンハルトは幼い頃、父の軍議で聞いた名を思い出した。
《遠鐘》。どれほど離れた標的でも、鐘が鳴るより先に倒す伝説の暗殺者。性別も年齢も、誰一人知らなかった。
ネージュは窓枠の下へしゃがみ、二つに割れた鏃を拾った。片方は暖炉へ。もう片方は折れたカーテン金具の代わりに差し込み、布の皺まで丁寧に整える。
「今、鐘楼の男を……」
「鐘楼にどなたか?」
問い返す声は、いつもの侍女のものだった。
レオンハルトはカーテンを押し開けようとした。だが彼女が先に留め具を掛ける。微笑んではいるが、その手は拒絶を許さないほど静かだった。
やがて鐘楼から、定刻を告げる鐘が鳴った。
一度、二度、三度。
射手が起き上がる気配はない。
ネージュは冷めた珈琲を盆へ載せ、新しい一杯を机に置く。公の命を狙った矢は、金具に姿を変え、誰にも疑われず布を支えていた。
退室する前、彼女は最初とまったく同じ調子で告げた。
「西のカーテンは、日暮れ前に閉めます」