角砂糖を二つ

退職してから、武則は午後三時に喫茶「青葉」へ行くようになった。

現役の頃は砂糖を入れなかった。眠気を追い払うためだけのコーヒーで、味など気にしたことがない。けれど今は、白い角砂糖を二つ、銀のトングで慎重につまむ。

向かいの席は空けてある。

妻の千鶴は甘党だった。二人で来れば、いつも武則の受け皿から角砂糖をさらい、「あなたは苦い顔が似合うから」と笑った。亡くなって一年、家ではその声を思い出すことが減ったのに、この店の赤い椅子に座ると、不思議にはっきり聞こえる。

店主の巴は余計なことを言わない。水を二つ置くことも、ひとつにすることもない。ただ今日、コーヒーと一緒に小さな皿を運んできた。レモン色の包み紙に入った、一口大のクッキーが二枚。

「焼きすぎたので、おまけです」

「二枚とも?」

「焼きすぎましたから」

武則は一枚を食べた。縁は確かに濃く焼け、ほろ苦い。けれど中心にはバターの香りが残っている。

もう一枚を、空席側の皿に置いた。そんなことをすれば寂しさが増すと思って、これまでしなかったことだった。

「今日は結婚記念日でね」

巴はカウンターの内側で、磨いていたグラスを止めた。

「それは、おめでとうございます」

お悔やみではなかった。その言葉が胸の中へ静かに落ちた。

武則は角砂糖を一つ、自分のカップへ入れた。もう一つは空席側へ置く。コーヒーを飲むと、いつもより少し苦かった。

店を出る前、残ったクッキーを包んでもらった。帰宅したら仏壇に供え、明日の朝、自分で食べるつもりだった。

ドアを開けると、秋の風が店内へ細く入り、焙煎した豆と焦げたバターの匂いを外へ連れていった。武則は襟を立てず、その風の中をゆっくり歩いた。

角を曲がる前にポケットを探ると、包みの中でクッキーが小さく割れた。昔なら千鶴に叱られただろう。武則は笑い、欠片を落とさぬよう手のひらで包んだ。家までの道に西日が長く伸び、その影は、並んで歩くには少し幅が足りないくらいだった。