記憶移植同意書・第七項

【記憶移植同意書・第七項】

提供者は、移植された記憶を永久に失います。

受領者が回復しても、両者の関係が回復するとは限りません。

月岡玻名は、その一文に三度署名した。

列車事故で彼女が失ったのは、自分の名前以外のほとんどすべてだった。医師は、家族や恋人の記憶を移植すれば、人格の連続性を取り戻せる可能性があると言った。

提供を申し出たのは、恋人の白瀬燈吾だった。

「僕の中にある君の記憶を、君へ返すだけです」

「返したら、あなたは?」

「知らない人になる」

「私にとって?」

「僕にとって、君が」

移植できる記憶には限度があった。燈吾は二人の七年間を選んだ。

海辺での告白。

玻名が熱を出した夜。

狭い台所で踊って、鍋を焦がしたこと。

喧嘩のあと、同じ映画を別々の席で観たこと。

結婚の約束をした朝。

手術が終わると、玻名はすべてを思い出した。

目覚めた彼女の隣に燈吾はいなかった。

廊下の自動販売機の前で、知らない女性の回復を待つ義務はないと言って、帰ったあとだった。

退院の日、玻名は二人がよく待ち合わせた駅へ行った。夕方六時、燈吾は昔と同じ改札から現れた。彼女の記憶では、彼はいつも三分遅れる。今日も三分遅れていた。

「白瀬さん」

燈吾は足を止め、丁寧に会釈した。

「病院の方ですか」

「いいえ。あなたから、忘れ物を受け取った者です」

玻名は二人の写真を見せなかった。愛していた証拠を突きつければ、彼のこれからを過去へ縛ることになる。

「大切な記憶でした。ありがとうございました」

「役に立ったなら、よかったです」

燈吾は微笑んだ。

その笑顔を、玻名は七年分知っていた。眠いと右の口角だけ下がることも、悲しいときほど目を細めることも。

「あなたは、後悔していますか」

「分かりません。何を失ったのか、覚えていないので」

電車が着き、人波が二人の間を横切った。

玻名は言いたかった。

私たちは愛し合っていた。

あなたは私を命より大切だと言った。

もう一度、私を好きになって。

だが口にしたのは一つだけだった。

「どうか、お元気で」

燈吾は「あなたも」と答え、反対側のホームへ去った。

玻名の中には、彼に愛された記憶が完璧に残っている。

燈吾の中には、彼女を愛した痕跡が一つもない。

第七項は正しかった。

記憶は返せても、二人で持っていた過去までは返らない。

玻名は署名済みの同意書を折り畳んだ。

紙の裏には、手術前の燈吾の字で、規則にない一文があった。

〈君が僕を忘れて生きるより、僕が君を忘れて生きるほうを選ぶ〉

彼女はその言葉だけを、これから一人で覚えていくことになった。