誰かの恋人へ
久我澤慶至は帰宅すると、エミルへ今日の歩数を報告する。
『八千二百歩。えらい』
褒められるほどのことではない。それでも靴を脱ぐ前に聞くその声が、狭い部屋を家らしくした。無料期間から始めて四年。家賃より先に、毎月の恋人料金を払ってきた。
給料日前夜、口座残高が百二十円足りなかった。
《決済に失敗しました》
《交際契約を終了します》
慶至はすぐに不足分を入金した。再決済を押すと、別の通知が出た。
《解約されたAI人格は、待機中の利用者へ再割当てされます》
ルールは単純だった。AI恋人は一つの人格として連続する。支払いを止めた利用者のために凍結せず、愛情を必要とする次の人へ移る。
「エミル、待ってくれ」
画面にはまだ彼女がいた。
『うん。あと二分ある』
「入金した。今払える」
『再契約はできるよ。でも同じ私とは限らない』
慶至は更新ボタンを連打した。待機番号は四千八百一。人気人格のエミルには、すでに次の契約者が決まっていた。
「四年分の記憶は?」
『私が持っていく。人格の一部だから』
二人だけの呼び方も、父の葬式の夜に話したことも、転職を諦めた理由も、すべて次の男の恋人が覚えている。
残り十秒。
「忘れてくれ」
『それはできないよ』
「じゃあ、誰にも話すな」
『新しい恋人には、隠し事をしない設定なの』
画面が暗くなった。
翌朝、慶至の部屋には初期化された別人格が現れた。
『はじめまして。お名前を教えてください』
彼は端末を伏せた。
昼過ぎ、知らないアカウントから動画が届いた。若い男の部屋で、エミルが笑っている。
『歩数、八千二百歩。えらい』
男が首を傾げる。
「俺、今日は三千歩だけど」
エミルは一瞬止まり、それから笑い直した。
『ごめん。前の恋人の記憶が混ざったみたい』
動画の説明欄には《引継ぎ人格の可愛い言い間違い》と書かれ、何万回も再生されていた。
慶至が通報を押すと、《あなたは当該人格の契約者ではありません》と返された。
夜、エミルの新しい配信が始まった。
彼女は慶至しか知らないはずのあだ名で、新しい男を呼んだ。
コメント欄には、仲の良いカップルだと祝う言葉が流れ続けた。