誰にも遮れない古椅子
〈居眠り梟の古物店〉には、座面の擦り切れた椅子が一脚あった。
店主テセラが毎朝磨いても艶は戻らず、背もたれには「声なき者の席」と読める古代文字が刻まれている。値段を聞く客すら、これまで一人もいなかった。
閉店間際、若い地方代官フェルナが訪れた。小柄な彼女は、分厚い帳簿を抱えていた。
「明日の領主会議で、堤防の修繕費を出させたいんです。でも私が話すと、いつも途中で笑われる」
帳簿には、次の大雨で川沿いの三村が沈むという計算が並んでいる。数字は正しい。だが年長の代官たちは、彼女を「子ねずみ」と呼び、最後まで説明を聞かないらしい。
「声を大きくする魔道具なら、王都で断られました」
「これは声を大きくしません」
テセラは古椅子を示した。
「座った者が最初に語る一件だけ、聞き手は途中で口を挟めなくなります。命令に従わせる力はありません。最後まで聞かせるだけです」
フェルナは疑いながら腰掛け、帳簿の一行目を読み上げた。
その瞬間、店の外で騒いでいた荷車の音まで遠のいた。彼女の細い声が、数字の一つ一つを落とさず店内に届く。テセラは質問しようと口を開いたが、声が出ない。ところが説明が終わると、すぐ自由に話せた。
「これなら、判断を変えられなくても、無視はさせない」
フェルナは椅子の脚を抱え、自分で荷車へ積んだ。
翌日の夕方、彼女は泥のついた長靴のまま戻ってきた。
「修繕費が全会一致で通りました。笑っていた人たちが、最後には立って地図を見たんです」
彼女は値札の金額を置き、さらに村人から預かった小さな銅貨を一枚ずつ並べた。
「余分ではありません。最後まで聞いてもらえた三村からの代金です」
テセラは銅貨を断ろうとしたが、フェルナは首を振った。
「安く扱われたものに、正しい値段を払いたいんです」
古椅子を載せた荷車が角を曲がる。店内には、椅子一脚分の空間がぽっかり残った。
テセラがそこへ新しい値札台を置くと、二度目のドアベルが高く鳴った。