調停室に母はいない
【申立人】
長男。
【相手方】
長女。
【争点】
亡母の口座から、生前五年間で七百二十万円が引き出されていた件。
「姉が使い込んだ」
長男は通帳の写しを机へ置いた。
「介護費と生活費です」
長女は領収書の束を出した。
紙おむつ、配食、通院、手すり工事。だが全額には届かない。
「百八十万円、説明できない」
調停委員が確認すると、長女は手を握りしめた。
「自分の家賃と、娘の学費に使いました」
長男が椅子を蹴った。
「盗んだんじゃないか」
「仕事を辞めて母を見た。毎晩呼ばれて、昼は病院。あなたは年に二度来て、頑張ってるねと言っただけ」
「だから勝手に取っていいのか」
「よくない。でも、助けてと言っても、お前ならできるって返された」
長男は黙った。
母の預金は、金だけではなかった。
長女には、失った収入と眠れなかった夜の代価に見えた。
長男には、自分へ残されるはずだった母の愛情に見えた。
「何を求めていますか」
調停委員に聞かれ、長男は答えた。
「金を返してほしい」
少し置いてから付け足した。
「母が姉だけを選んだわけじゃないと分かりたい」
長女は顔を上げた。
「私は、介護したから母を一人占めしたわけじゃない。何度もあなたを呼んだ」
「行けば仕事を失った」
「私は失った」
また声がぶつかった。
結論は、きれいな仲直りではなかった。
介護に使った支出を整理し、長女が自分へ流用した百八十万円のうち九十万円を、五年かけて遺産へ戻す。
残りは、母の介護によって失った収入の一部として、長男が請求を放棄する。
長女は「盗んでいない」と言わない。
長男は「何もしていない」と言われても否定しない。
最後に、母の遺品だった腕時計をどちらが取るかで、二人はまた揉めた。
調停委員がため息をついた。
長女が時計を机へ置いた。
「一年ずつ持つ?」
長男はすぐには頷かなかった。
「壊したら弁償」
「古い時計に値段つけるの?」
「そこからまた調停だ」
二人は、初めて少し笑った。
調停室に母はいない。
だから母の本心を勝手に代弁せず、二人の損失と過ちを、二人の言葉で決めるしかなかった。