赤い傘の往復

 朝は晴れていたのに、午後から大雨になった。

 家の傘立てに残っていたのは、赤い傘一本だけだった。

 最初に仕事から戻った父が、それを持って駅へ向かった。母の電車が着く時間だった。

「あなたは?」

 改札で母が聞くと、父は傘を渡した。

「走って帰る」

「二人で入ればいいでしょう」

「次に姉ちゃんが来る。これ持って待ってて」

 父は本当に雨の中を走って帰った。

 母は赤い傘を差し、二十分後に来た娘を迎えた。

「お母さんは?」

「買い物袋があるから、先に帰る。今度は弟を待ってあげて」

 娘は傘を受け取った。

 さらに三十分後、僕が駅へ着くと、姉が改札前で立っていた。

「遅い」

「図書室にいた」

「傘、忘れたでしょう」

「朝、晴れてたもん」

 姉は僕に赤い傘を押しつけた。

「姉ちゃんは?」

「走る。制服が濡れても洗えばいいし」

「一緒に入ろうよ」

「狭い」

 けれど姉は傘の外へ出ず、僕の肩を押して中へ入った。

 二人で歩くと、右の肩と左の鞄が濡れた。

 家の前には、父と母が立っていた。

「何してるの?」

「傘が無事に戻るか見てた」

 父が言った。

「傘より私たちを見てよ」

 姉が怒ると、母は笑った。

「ちゃんと見てる。みんな、次の人へ渡して、自分だけ濡れて帰ってきた」

 玄関へ入ると、床に四人分の水たまりができた。

 父はタオルを配り、母は鍋で牛乳を温めた。姉は靴下を脱ぎ、僕は赤い傘を広げて浴室へ立てかけた。

「結局、全員濡れたね」

「効率が悪い家族だ」

 父が言った。

「誰か一人が持って帰れば済んだのに」

「でも、駅で待ってる人がいた」

 僕が言うと、少し静かになった。

 雨の日、迎えに来る人がいること。

 次の人を気にして、傘を渡す人がいること。

 濡れて帰ったら、温かい飲み物が出てくること。

 そのどれも、特別な出来事ではない。

 その夜、四人の濡れた靴は玄関に斜めに並び、翌朝まで乾かなかった。それを誰も急いで片づけようとはしなかった。

 翌朝、赤い傘は乾いて、また傘立てに戻った。

 家族の誰かが困る日を、黙って待つように。