赤い湯気の順番

 乾有人は、会社を出てからずっと、後輩の顔を思い出さないようにしていた。

 コールセンターの最終受付間際、四十分続いた苦情電話を切った直後だった。有人は隣の席の後輩に、「その処理、まだ終わってないのか」と強い声をぶつけた。後輩は何も言わず、入力画面へ視線を戻した。入社してまだ二か月で、難しい案件のあとには必ず有人へ確認を取りに来る後輩だった。その慎重さを、今日は遅さと決めつけた。怒る相手を間違えたと気づいたのは、フロアの照明が半分消えてからだった。

 終電前の居酒屋は静かで、客は有人一人だった。

「辛いもの、ありますか」

 店主は黙って麻婆豆腐を作り始めた。

 鉄鍋でひき肉と豆板醤が焼け、じゅうじゅうと低い音が続く。花椒の乾いた香りが鼻の奥へ刺さり、赤い餡から立つ湯気が眼鏡を一瞬で曇らせた。匙を差し込むと、白い豆腐が赤の中から崩れて現れた。

 熱い。辛い。なのに、電話口で浴びた言葉より、ずっとまっすぐだった。誰から受け取ったのか分からない苛立ちではなく、目の前の一匙から来る刺激だった。

 有人は水を飲まず、二口目を運んだ。

「辛さ、下げられました?」

 店主が聞いた。

「いや。これで」

「じゃあ、豆腐から食べると少し楽です」

 有人は赤い餡を避け、豆腐の白いところを匙ですくった。完全に辛くないわけではない。ただ、順番を変えるだけで息が戻った。

 明日の朝、苦情の履歴を開く前に後輩の席へ行こう。「昨日は悪かった」と先に言う。電話が大変だったとか、疲れていたとかは付けない。処理が遅れていた理由も、そのあとで聞く。

 謝ったからといって、後輩の警戒は消えないだろう。チームの空気も、一本の言葉で元には戻らない。午後にはまた、理不尽な電話が鳴る。有人自身も、次は平静でいられるか分からない。だからこそ、怒りを受け取った人間が次へ渡さないための手順を、後輩と一緒に考える必要がある。

 それでも最初の一言の順番だけは、自分で選べる。

 鍋の底に残った豆腐をすくうと、花椒のしびれが唇を細く震わせた。飲み込んだあと、喉には辛さよりも豆腐の熱が長く残った。