赤い糸はミルクに沈む
篠宮結衣が元恋人の結婚式の招待状を出すと、黒瀬環はミルクピッチャーを磨く手を止めた。
環は爪を黒く塗り、左手首に細い赤い糸を巻いている。カップのひびや機械の緩みを見つけるたび、同じ糸で目印をつけた。
「結び目は、見えるところに」
それが口癖だった。
「行っても平気だと思いますか」
結衣は明るく訊いた。別れて二年。未練はない。共通の友人も多い。欠席したら、かえって気にしていると思われそうだ。
環はカフェラテを作りながら、招待状ではなく結衣の手元を見た。スマートフォンには、紺色のドレス、銀の靴、美容院の予約画面が開いたままだった。
「行くかどうかは、もう決めていますね」
「一応、準備だけです」
「結び目は、見えるところに」
ミルクの白い表面へ、環は赤いベリーソースを一筋落とした。糸のような線は、すぐ泡の下へ沈んだ。
結衣は唇をかんだ。本当は、きれいになった自分を見せたかった。別れたことを後悔させたいわけではない。ただ、あの頃より幸せそうに見られたかった。そんな自分を、未練がましいとは認めたくなかった。
「欠席したら逃げたみたいで」
「出席して演じる方が、逃げる場合もあります」
環は容赦がない。けれど招待状を取り上げず、代わりに小さなメッセージカードを添えた。
「祝いたい気持ちはありますか」
「あります」
「なら、それだけは本物です。カードに残せます」
結衣はしばらく考え、『結婚おめでとう。二人の毎日が穏やかでありますように』と書いた。ドレスの予約を取り消し、欠席の返信に丸をつける。胸の奥が少し痛んだが、痛みを誰かに見せるための服を選ばなくて済むと思うと、息が軽くなった。
会計の途中、環が一客のカップを棚から外した。持ち手の根元に、ごく細い亀裂がある。赤い糸を結びつけ、修理箱へ移す。
「その糸、縁結びのお守りだと思ってました」
結衣が言うと、環は黒い爪で結び目をきつくした。
「違います。壊れかけたものを、壊れていないふりで使わないためです」
赤い糸は、恋をつなぐものではなかった。傷を隠さず、誰かが手を切る前に知らせるための印だった。
環は結衣の書いたカードの角にも、短い赤い糸を結んだ。
「これは壊れ物ですか」
「いいえ」
環は招待状と一緒に封筒へ戻した。
「もう直し始めたものです。結び目は、見えるところに」