赤ペンの持ち主

雨宮皓美は、実家の机から赤ペンを一本だけ抜き取った。

母が小学校教師だったころ使っていたものだ。皓美の教員採用試験の参考書には、その赤で丸や星がびっしり描かれている。間違えた箇所より、母が重要だと決めたページのほうが多かった。

段ボールには、指導案、教育法規の本、面接用の紺のジャケット。皓美は一つずつ詰めていた。明日の資源回収へ出すためだ。

台所から母が顔を出した。

「それ、二次試験でまた使うでしょう」

「もう受けないよ」

母は手にしていた布巾を握った。

「一次に二回も受かったのに?」

皓美は今朝届いた花店の採用通知を、机の上へ置いた。駅ビルの小さな店で、まずは契約社員。母が言う「ちゃんとした仕事」からは、何度も外されてきた職種だった。

「教師になれば、夏休みもあるし、産休も取れる。女の子には一番いいの」

「子どもの前に立つたび、お母さんの授業をしてる気がした」

「私のやり方を教えたんだから当然でしょう」

母は悪びれなかった。皓美の模擬授業を録画し、声の高さまで直した人だ。皓美が採用試験を受けるたび、母の元同僚へ結果が先に伝わった。

皓美は赤ペンの蓋を閉じ、母へ差し出した。

「これは返す。次の応募書類は見せない。合否も、私が話したい人にだけ話す」

「親に隠し事をするの?」

「隠すんじゃなくて、採点させないの」

母は赤ペンを受け取らなかった。机の上で転がり、参考書にぶつかって止まった。

皓美は段ボールの蓋を閉じた。母が「花なんて枯れるでしょう」と言う。

「枯れるから、毎日見て手を入れるんだよ」

「教師なら一生残るものを――」

「残したいものまで、お母さんに決めてもらわない」

箱を玄関へ運ぶと、母は追ってこなかった。

翌朝、皓美が回収場所へ箱を置くと、上に赤ペンが一本載っていた。母が入れたのか、昨夜から紛れ込んでいたのか分からない。

皓美はそれだけ拾い、実家の郵便受けへ戻した。

赤で直されていない採用通知を、鞄の内側へ深くしまった。