足音を数えない夜
稲見灯佳のスマートフォンは、家族からの頼み事でよく震えた。母からは役所の手続き、兄からは姪への贈り物選び、父からは新しい端末の設定。家族は灯佳を「一番話が早いから」と頼った。褒め言葉のようで、断る余地を先に塞ぐ言葉でもあった。会社でも急ぎの確認は灯佳へ集まり、予定表には自分の用事より他人の締切が多かった。灯佳は都内で一人暮らしをしているのに、実家の用事だけはいつも廊下の向こうにあるようだった。繁忙期に残業していても、家族のメッセージだけはすぐ開いた。「灯佳なら分かる」「灯佳は近いから」と言われるたび、必要とされている安心と、断れない重さが同時に増えた。自分の予定は、家族の空いている欄として扱われていた。
住んでいる階の消毒工事で、一週間だけ共同住宅へ移った。ルームメイトの小沼環季は舞台の大道具を運ぶ仕事をしていて、帰宅すると靴下を脱ぎ、裸足で歩いた。足裏に木くずが刺さらないかと灯佳が心配すると、環季は床へ耳を近づけた。
「この部屋で一番大きい足音、誰のだと思う?」
上の階の住人だろうか。灯佳がそう答えると、環季は肩をすくめた。
「今夜、廊下を一往復だけ裸足で歩いてみて。音が聞こえたら、そのとき来た頼みを一つだけ断る」
「頼みが来なかったら?」
「それなら静かな夜で終わり」
環季は理由を説明せず、作業靴の泥を新聞紙へ落とした。
その夜、灯佳は風呂上がりに靴下を脱いだ。共同住宅の床は思ったより冷たく、足の指がきゅっと縮んだ。普段は踵の音を立てないよう歩いていたことに、そのとき初めて気づいた。下の階へ迷惑をかけないためだけではない。自分がいると知らせるような音を、灯佳はいつも小さくしていた。一歩進むたび、ぺたり、と小さな音がした。自分が歩くだけで部屋の空気が動くことが、妙に恥ずかしかった。
廊下の端へ着いたところで、スマートフォンが震えた。母からだった。明日、叔母の代わりに病院の書類を受け取れないか。午前を休めば間に合う。灯佳の指はもう「大丈夫」と打ち始めていた。
ぺたり。戻る一歩の音がした。
灯佳は文章を消した。断れば冷たい娘だと思われるかもしれない。母が困る顔まで浮かんだ。それでも床に触れているのは、自分の足だった。
「明日は行けない。土曜なら手伝えるよ」
送信したあと、灯佳はスマートフォンを伏せた。環季の部屋からは何も聞こえない。
灯佳は残りの廊下を、足音の数を数えずに歩いた。