距離の代金

この国では、遠くへ手紙を送るとき、切手の代わりに記憶を払う。

千キロにつき一つ。郵便局の窓口で封筒を差し出すと、局員が銀色の秤に指を乗せさせ、差出人の思い出から必要な数だけ選び取る。

都築紬と嶺岸朔が九千六百キロ離れて暮らすことになったとき、二人は笑って言った。

「十個くらいなら、いらない記憶を選べばいい」

最初の手紙で紬が払ったのは、中学の校歌、嫌いだった給食、なくした傘の色。朔は、昔の上司の口癖や、観終えた映画の結末を差し出した。

封筒の裏には、郵便局の文字で代金が記された。

〈支払済記憶――初めて二人で食べた料理〉

三通目から、いらない記憶は足りなくなった。

紬は朔の笑い声を失った。朔は紬の左頬にだけできるえくぼを忘れた。受け取った側だけが、相手の失ったものを覚えていた。

〈あなたは笑うと、途中で一度息を吸う〉

〈君は怒ると、左の靴だけ早く減る〉

二人は手紙の中で、相手が手放した記憶を返すように書いた。けれど文章で教えられた思い出は、知識にはなっても、記憶には戻らなかった。

やがて二人は約束した。

顔を忘れる一通前で、やめよう。

その一通が届いた夜、紬は封を切れずに朝まで抱いていた。裏にはこうあった。

〈支払済記憶――都築紬の顔〉

中の便箋に、朔の震えた字が並んでいた。

〈約束を破ってごめん。あなたの顔が思い出せません。でも、あなたへ書こうとすると胸が苦しくなるので、たぶん僕は、今もあなたを大切にしています〉

紬は泣きながら返信を書いた。九つの記憶を払えば、今度は自分も朔をほとんど忘れる。それでも沈黙を選ぶことはできなかった。

数年後、二人は互いの声も、出会った日も、恋人だった事実さえ覚えていなかった。

それでも月に一度、九千六百キロを越えて、知らない差出人から手紙が届く。

〈はじめまして。なぜか、あなたには今日のことを全部話したくなりました〉

紬は毎回、同じ書き出しで返す。

〈はじめまして。あなたの手紙を読むと、なぜか帰ってきた気がします〉

距離は二人から恋の記憶をすべて奪った。

けれど、相手へ向かおうとする心だけは、どの秤にも載らなかった。