踊る前に手を貸して
母が父を忘れた日、父は結婚写真を持って施設へ行った。
「ほら、五十二年前の私たちだ」
母は写真と父の顔を見比べ、職員へ助けを求めた。
「知らない男の人が、私の夫だと言います」
帰りの車で、父は一度も話さなかった。
次の週、父はアルバムを三冊持っていった。娘の私が止めた。
「思い出させようとしないで。お母さん、怖がってる」
「忘れられたまま、何をすればいい」
「今のお母さんに会って」
父は怒った。
「今までの五十二年を、なかったことにしろと言うのか」
答えられなかった。
母は若いころ、社交ダンスをしていた。施設の催しで古いワルツが流れると、椅子に座ったまま足先が動いた。
父は写真を鞄へ戻し、母の前で頭を下げた。
「一曲、踊っていただけますか」
「あなた、踊れるの?」
「昔、ある人に習いました」
母は少し迷い、手を差し出した。
二人はゆっくり立った。父は腰を抱かず、母が握ったぶんだけ手を握った。母の足は順番を覚えていた。右、左、閉じる。父は昔のように先へ引っ張らず、母の速さを待った。
曲が終わると、母は尋ねた。
「あなた、どなた?」
父の顔が一瞬崩れた。
「毎週、踊りに来る者です」
「では、また来週」
それから父は、面会のたびに名乗った。
「初めまして」
「一曲いかがですか」
「今日は座ってお茶にしますか」
母が断る日は、隣で音楽だけを聞いた。帰りには、次の週に流す曲を一つだけ職員へ預けた。
ある日、母が父の手を見て言った。
「前にも、この手と踊った気がする」
父は「夫だから」と答えなかった。
「私も、そんな気がします」
帰り際、私は父に尋ねた。
「つらくない?」
「つらい。だが、夫だった証拠を突きつけるより、今日も選んでもらうほうがいい」
次の週、母は父を見ると笑った。
「踊る人」
「はい」
名前でも、夫でもなかった。
それでも父はうれしそうに、もう一度、初対面の礼をした。
家族であった年月は消えない。
けれどその年月を盾にせず、今日の相手へ手を差し出すことも、家族を続ける一つの形だった。