辛さ五番
紅葉は券売機で「辛さ五番」を押した。三年間、一度も選ばなかった数字だった。
彼は辛いものが苦手で、家のカレーはいつも甘口だった。外で食べるときも、同じ鍋を囲める店を選んだ。紅葉は昔、辛いほど好きだと言っていたのに、いつからか「私も甘口で平気」と答えるようになった。別れて十日目、友人に戻ったんだから好きなものを食べなよと言われ、まっすぐこの店へ来た。
運ばれたカレーから、焦がした唐辛子の香りが立った。ひと口目で舌が熱くなり、二口目で額に汗が浮いた。五番は記憶よりずっと辛い。三口目には涙まで出た。
紅葉が誰にも言えないのは、彼を失ったことより、彼に合わせていた自分を嫌いになり始めたことだった。甘口を選んだ夜も、旅行先を変えた朝も、全部を我慢だったことにすれば、別れはきれいに説明できる。けれど、笑っていた時間まで嘘にしてしまうのは違う気がした。
それでも、五番を完食すれば昔の自分に戻れるような気がして、紅葉はスプーンを進めた。喉が焼け、味がわからなくなる。隣の客がちらりと見た。意地で四口目をすくい、そこで手を止めた。
皿の端には、まだ白いごはんが残っていた。紅葉はカレーを少しだけつけ、辛さを薄めて食べた。次はさらに少なくつけた。五番を選んだのに、五番のまま食べなければいけない決まりはない。
彼に合わせた甘口が、全部嫌だったわけではない。今日の五番を、全部好きになる必要もない。
半分を越えたところで、紅葉は水を飲んだ。負けた気はしなかった。むしろ、ようやく自分の舌を使っている気がした。
最後に残ったのは、赤いソースだけのひと匙だった。昔の自分なら飲み込んだかもしれない。紅葉はそれを皿に戻し、伝票の裏へ小さく「次は三番」と書いた。
辛さから逃げたのではなく、味がわかるところまで戻したのだと思うと、残した赤が急に小さく見えた。
店を出るころ、涙はもう辛さのせいだけになっていた。