返事はいらない

 二〇一〇年四月十二日。富山。

〈工房が決まりました。朝は早いし、親方は怖い。でも、ガラスが息をする瞬間はきれいです。お母さんが反対した意味も、今なら少し分かります。返事はいりません。――透子〉

 芙美はその葉書を、居間の柱に画鋲で留めた。

 返事を書きかけた。

〈反対したのは、女一人では無理だと思ったからではありません。お前が遠くへ行くのが嫌だっただけです。〉

 けれど、最後の一文を読み返し、便箋を引き出しにしまった。

 二〇一二年九月三日。金沢。

〈初めて私の器が売れました。千八百円。安いでしょう。でも買った人が、朝食のヨーグルトを入れるそうです。返事は相変わらず不要です。〉

 芙美は新聞で娘の名を探し、地方欄の小さな記事を切り抜いた。

〈安くありません。誰かの朝に使われるものを作れるなんて、大したものです。〉

 それも送らなかった。

 二〇一七年六月二十日。札幌。

〈個展を開きます。来なくていいです。遠いし。青い鳥の置物が目印です。〉

 芙美は始発と飛行機を乗り継ぎ、会場のいちばん隅で青い鳥を買った。透子が客と話している間に帰った。名札には偽名を書いた。

〈髪を短くしたのですね。よく似合っていました。声をかけなかったのは、あなたが堂々としていたからです。私が母親だと名乗れば、昔の小さな透子に戻してしまいそうでした。〉

 やはり、引き出しに入れた。

 二〇二六年二月。透子の工房に、古い菓子箱が届いた。送り主は、母の入居した施設だった。中には十六年分の切手のない手紙と、青いガラスの鳥が入っていた。

 最後の便箋には、震える字でこうあった。

〈「返事はいらない」を、私は約束だと思うふりをしました。本当は、何を書いてもまたお前を傷つける気がして怖かった。親は子の道を照らすものだと思っていたけれど、私がしたのは影を落とすことばかりでした。ごめんなさい。今度は、返事がほしいです。〉

 透子はその日のうちに施設へ向かった。

 窓辺で芙美は、青い鳥のない棚を見つめていた。透子を見ても、すぐには立てなかった。

「手紙、読んだ?」

「全部」

「返事は……」

 透子は椅子を引き、母の隣に座った。

「十六年分あるから、今日は帰らない」

 芙美の唇が、泣くときの形に歪んだ。

 透子は青い鳥を窓辺に置いた。午後の光が透け、二人のあいだの床に、長く青い道を作った。