返却期限のない本
返却期限の印がない本は、十三階へ返す。
市立図書館に十三階はないが、閉館後の業務用エレベーターで「開」と「閉」を同時に押せば着く。担当者は本を開いたまま持ち、最終ページから一ページずつ番号だけを読み上げる。本文を声にしてはいけない。途中で本を閉じた場合、その本は借りた人の蔵書になる。
椙原は返却ポストの底から、弟の利用券が挟まった本を見つけた。
弟が死んで二年になる。家族は蔵書をすべて処分したはずだった。本の題は『一人で眠るための建築』。貸出印の欄は真っ白で、八十八ページあるのに、目次には八十七までしか載っていない。
椙原は規則どおり運んだ。
「八十八、八十七、八十六」
エレベーターは上がっているのか下がっているのか分からなかった。ページをめくるたび、弟の痕跡が出た。二十一ページにコーヒーの輪。十六ページに押し潰されたクローバー。九ページには、病室で使っていた紙製の腕輪が栞のように挟まっていた。
四十三ページには海辺の砂がこびりつき、二十七ページからは消毒液の匂いがした。番号を逆に読む声だけが、閲覧室のない階へ弟の時間を運んでいく。
三ページで、余白に鉛筆の文字が見えた。椙原は読まなかった。読めたとしても、声にしてはいけない。二ページ、一ページと数える。
最後に表紙をめくると、そこにもページ番号があった。
「十三」
扉が開いた。
十三階は閲覧室だった。机には誰もいないのに、椅子の上で上着だけが本を読んでいた。返却台には「期限のない本は、待っている人へ」と札がある。
椙原は本を置いた。弟の利用券だけ抜こうとしたが、指が動かなかった。図書館の規則では、挟まっていたものも資料の一部である。
扉が閉まる直前、本が勝手に開いた。三ページの鉛筆書きが見えた。
《兄ちゃんは、読まない約束だけ守る》
椙原は声にしなかった。
一階へ戻ると、貸出端末に返却完了の表示が出ていた。利用者名は弟、返却日は明日。返却ポストの受け皿には、乳歯が一本落ちていた。
小さな歯には弟の利用券番号が刻まれ、根元に濡れたクローバーが芽を出していた。