返却箱の金属音
伊都の掌には、二本の鍵があった。
銀色は、旭と借りるはずだった部屋の合鍵。青い樹脂の札がついたほうは、地方拠点の社宅の鍵だった。昇進と同時に一年間の異動を受けるなら、今日中に受領書へ署名しなければならない。
不動産会社のカウンターで、旭は銀の鍵をくるくる回した。
「断っても、後悔しない?」
「受けても、後悔するよ」
伊都が答えると、旭は笑わなかった。
同棲を始めて半年後に入籍する。それが二人の予定だった。社宅へ移れば、週末だけ会う生活になる。新居の違約金もかかる。冷蔵庫もベッドも、どちらか一人には大きすぎた。
けれど異動先では、伊都が初めて責任者になる。二十代の最後に一度だけ、自分の判断でチームを動かしてみたかった。その気持ちを「今しかないから」と言うたび、結婚を先延ばしにする言い訳のように聞こえた。
新居の間取り図には、二つ並べた机を赤ペンで描き込んでいた。社宅の図面には、小さな机が一つだけ印刷されている。一人で暮らす広さと、二人で待つ時間は、同じ縮尺では測れなかった。
旭のスマートフォンには、新居の家具リストが開かれている。伊都のスマートフォンには、異動先の始業案内。画面を伏せても、二つの未来は消えなかった。
「一年後、同じ気持ちかは約束できない」
旭が言った。
それは脅しではなく、未来を勝手に保証しないための言葉だった。伊都は胸の奥が冷えた。待っていてほしいと言えば、たぶん旭は努力する。けれど、その努力まで当然の代金にしてはいけない。
伊都は銀の鍵をカウンターへ置いた。
「この部屋は、解約します」
担当者が違約金の額を告げる。旭は何も言わず、家具リストを閉じた。
次に、青い鍵の受領書へ署名した。線が少し震えたので、書き直したくなったが、そのままにした。
店を出る前、伊都は旭に銀の鍵を渡すのではなく、二人で返却箱へ入れた。金属音が一つ響く。
青い鍵だけになった掌は、軽いはずなのに重かった。伊都はそれをポケットへ入れ、自分で選んだ重さのまま立ち上がった。