返品できない署名

 牧瀬大吾は、買った本を翌日に持ち込んだ。

 限定百部、著者直筆署名入り。ところが表紙にはコーヒーの輪染みがあり、帯は裂け、角は机へ打ちつけたようにつぶれている。

「最初からこうだった。返金しろ」

 古書店員の比企野澄人は、昨日、自分が薄紙で包んだときの状態を覚えていた。店の販売記録にも、四方向から撮った画像が残っている。

「恐れ入りますが、販売時には傷みはありませんでした」

「客を嘘つき呼ばわりするのか?」

 牧瀬はスマートフォンを棚に立て、ためらいなく配信を始めた。文化評論を名乗る彼の画面には、すぐに数百人が集まった。

「皆さん見てください。素人店員が欠陥本を売りつけ、返品も拒否しています」

 澄人が記録画像を見せようとすると、牧瀬は手で遮った。

「後から撮った写真だろ。こういう小さな店は、客を丸め込むことしか考えていない」

 さらに本を開き、署名のページをカメラへ突き出した。

「そもそもこの作家、文章も署名も三流だ。サインなんて子どもの落書きですよ。匿名を気取っているのも、顔を出す自信がないからでしょう」

 澄人は署名を見た。

 ペン先が最後の一画で止まり、わずかに右へ跳ねる。長く書くうちについた、自分でも直せなかった癖だった。

「返金はできません。ただし、署名が本物かどうかは保証できます」

「何を根拠に?」

「書いた本人ですから」

 牧瀬は一瞬止まり、すぐ笑った。

「店員が作家ごっこか。話題作りにもほどがある。今の発言も切り抜いて広めてやる」

 店の扉が開いた。出版社の編集者と、撮影用のカメラを抱えた二人が入ってくる。匿名で活動してきた作家が、文学賞受賞を機に初めて顔を公表する。その撮影場所に、この店が選ばれていた。

「先生、お待たせしました」

 編集者が澄人へ頭を下げると、配信画面のコメントが滝のように流れた。

 牧瀬は慌てて終了ボタンを押したが、編集者のタブレットには録画中の表示が残っている。店内の公式撮影も、入店直後から回っていた。

「ちょうどよかったです。欠陥販売と偽造署名を断定された箇所まで、出版社側にも保存されています」

 編集者は名刺を一枚、牧瀬の前に置いた。

「顧問弁護士にも共有しました」