送金先の一文字
海外送金の締切まで、あと七分だった。
狩野川征士は椅子を回しながら言った。
「高巣、これ流しといて。俺、会食だから」
三億円の送金依頼書には、受取銀行のコードが一文字だけ手書きで直されていた。額は支店の一日上限に近かった。
「変更確認は取りましたか」
「専務の息子に確認が必要?」
「規程では二名照合です」
「規程で利益が出るなら、規程に給料を払えばいい」
征士はジャケットをつかんで出ていった。
私は送金を止め、依頼企業へ電話した。先方は青ざめた声で、変更などしていないと言った。修正後の口座は、制裁対象企業の迂回口座として警戒されている番号だった。送金を保留すれば遅延損害を請求される。通せば銀行全体が取引停止になる。私は電話を切らず、相手の財務部と一文字ずつコードを読み合わせ、正式な変更依頼がどこにも存在しないことを確認した。
締切は過ぎた。征士からは〈責任取れよ〉とだけ届いた。私はその画面も監査用に保存した。
翌朝、監査部がフロアを封鎖した。征士は専務室へ駆け込んだが、父親はもういなかった。専務が長年、審査を省略して知人企業へ融資していた資料が、同じ調査で見つかったのだ。
午後の危機対策会議で、征士は私を指した。
「高巣が送金を遅らせた。取引先に迷惑をかけたのはこいつです」
依頼企業の財務責任者が、冷たい声で遮った。
「高巣さんが止めなければ、当社は犯罪収益移転の調査対象でした。今後の資金決済は、彼が担当することを継続条件とします」
頭取が私へ向き直った。
「高巣律君、法人決済室の主任を任せたい」
征士が机を叩いた。
「待てよ。親父は専務だ。こいつより俺のほうが上だろ」
監査部長が一枚の通知を読み上げた。
「狩野川専務は特別背任の疑いで取締役を解任。征士氏は重大な規程違反、職務放棄、虚偽報告により本日付で懲戒解雇」
その瞬間、征士の端末から業務画面が消えた。
中央に残ったのは、たった一行だった。
〈この利用者は在籍していません〉