逃げない本と冷めないスープ

羽鳥杏奈は料理書の棚で三十分立ち尽くした末、相談カウンターへ鍋の写真を見せた。

「祖母のスープを作りたいんです。レシピはありません」

沢渡怜司は真鍮のしおりを指で回しながら、写真を拡大した。愛想のない横顔で、眉だけがわずかに動く。

「白い。具が見えない」

「だから困ってるんです」

「味は」

「塩味で、甘くて、少し焦げくさい」

「矛盾しています」

「祖母の料理はだいたい矛盾してました」

杏奈が笑っても、沢渡は笑わなかった。真鍮のしおりを一度裏返し、「本は逃げません」と言った。

祖母が亡くなり、実家を売る日が決まった。最後の台所で、あのスープを作りたい。けれど家族の誰も材料を覚えていない。母は牛乳だと言い、叔父は豆乳だと言い、父はそもそも白くなかったと言う。

沢渡はレシピ本ではなく、昭和の家庭料理、地域の郷土食、古い婦人雑誌の縮刷版を机に積んだ。

「お祖母さまの出身地」

「北の港町です」

「冬に作った?」

「必ず。風邪のときにも」

「焦げくさいのは鍋底ではなく、焼いた何かかもしれません」

ページをめくる指が止まった。干した魚を炙り、じゃがいもと玉ねぎを煮崩し、最後に牛乳を入れる白い汁物。名前は祖母が呼んでいたものと違う。けれど写真の表面に浮く小さな茶色が、記憶と同じだった。

「これかも」

「本は逃げません。確かめてから借りてください」

図書館には小さな郷土資料室があり、昔の聞き書きに、同じ料理の別名が載っていた。祖母が使っていた呼び方だった。

杏奈は二冊を抱えた。沢渡は貸出票の間に、真鍮のしおりを挟んだ。

「それ、備品じゃないんですか」

「私物です。鍋を見ながら本を閉じるときに使ってください」

「返しに来ます」

「本は逃げません」

翌週、杏奈は空になった保温瓶と二冊を持ってきた。スープは家族全員が「少し違う」と言いながら、鍋を空にした。

沢渡は保温瓶には触れず、返却本だけを受け取った。

「しおりも返します」

真鍮の板には、細い字で店の名前と住所が刻まれていた。祖母が若いころ働いていた食堂だった。聞き書きの出典欄から、沢渡が探したらしい。

「本は逃げません」と彼は言った。「でも、店は来月で閉まります」

杏奈は保温瓶を抱え直した。今度は自分のスープを詰めて、その町へ行くために。