逆風の馬尾
草原に月はなく、白い馬尾だけが風に震えていた。
大汗エルデネは馬上からそれを指した。
「夜明け、狼旗を西へ倒せ。わが左翼は敗走したふりをする。追ってきたハルガ族を谷で挟む」
旗将カルガンは、馬尾の根元を確かめた。銀の輪が三つ。大汗の父、兄、そしてエルデネに仕えた年数を示す。三代で二十七年。長いと思ったことはない。終わる夜だけが長かった。
「谷には女と子供の天幕もあります」
「だから逃げずに追う。男は家族の前で強く見せたがる」
エルデネは歯を見せた。昨冬、カルガンの末子も同じ谷で死んだ。徴発した羊を隠したという理由で、大汗が首を刎ねた。息子は隠していなかった。数を数えた役人が一桁間違えただけだった。だが、間違いを認めれば大汗の威が落ちる。だから首が落ちた。
カルガンは旗竿を握り直した。
「西へ、ですな」
「風に逆らってでも西だ。旗は命令を見せるためにある」
その言葉だけは正しい。
二里先の丘には、敵将サルナイの騎兵が伏せている。カルガンは三日前、捕虜を一人逃がした。鞍の裏に短い文を縫い込んで。
――狼旗が東へ倒れれば、左翼はそちらへ走る。追うな。並んで南へ進め。
サルナイからの返事はなかった。返事を持つ者は捕まる。裏切りとは、相手を信じることではない。相手も自分と同じだけ追い詰められていると読むことだ。
「カルガン」
エルデネが声を落とした。
「おまえの一族は後陣に置いた。妙な真似をすれば、先に死ぬ」
カルガンは暗がりを見た。妻も、二人の娘も、確かに後陣の天幕にいる。だが中身は羊毛を詰めた寝具だけだ。昨日の夕暮れ、家畜商の荷車で北へ出した。
エルデネは気づいていない。大汗は人を疑うが、荷を疑わない。
東の空が薄くなった。谷から角笛が一声上がる。合図の刻だ。
「倒せ!」
カルガンは狼旗を高く掲げた。二万の騎兵が彼を見る。旗は風を受け、西へなびこうとした。
彼は全身の力で竿を逆へ押し倒した。
白い馬尾が東を指し、左翼の馬首が一斉に回った。