透明な朝食当番
入院を勧められても、母は家を空けたくなかった。
夫は料理ができず、二人の子どもは朝起きない。
自分がいなければ、この家は一日で崩れると思った。
診察帰り、薬局で白いカプセルを一錠もらった。
「飲めば朝食が終わるまで、家族から見えなくなります」
説明はそれだけだった。
翌朝、母は薬を飲み、台所の隅に立った。
夫が起きてきて、冷蔵庫を開けた。
何も作れず困ると思ったが、前夜に切った野菜を取り出し、ぎこちなく味噌汁へ入れた。
上の子は寝坊して走ってきた。
「お母さんは?」
「病院へ行ったと思って、今日は練習」
夫が言う。
下の子は食器を四人分並べた。
母の席にも、空の茶碗を置いた。
「いないのに?」
上の子が聞く。
下の子は、
「帰ってきたら使う」
と答えた。
味噌汁は薄く、卵は焦げた。
それでも三人は食べた。
夫が言った。
「お母さん、入院した方がいいと思う」
「本人が嫌って言ってる」
「嫌でも、治ってほしい」
「家のこと心配なんじゃない?」
「だから、できるって見せないと」
母は、自分が必要とされていないようで一瞬寂しかった。
すぐに、それこそ望んでいたはずだと思い直した。
家族が自分なしでも暮らせることと、自分が家族に要らないことは違う。
朝食が終わり、夫が空の茶碗を洗おうとした。
下の子が止めた。
「それは置いとく」
その瞬間、母の姿が戻った。
三人が叫んだ。
夫は驚いて卵焼きを落とし、上の子は泣き、下の子は母の茶碗を抱えた。
母は薬のことを話した。
「試したの?」
夫が少し怒った。
「私がいなくても平気か」
「平気じゃない。でも、できる」
夫は焦げた卵を拾った。
「できない日もある。その日は誰かに頼る」
母は翌週、入院した。
病室へ家族から朝食の写真が毎日届いた。
一日目は焦げたパン。
三日目は味噌汁。
一週間後には、母の分の茶碗へ花が一輪入っていた。
退院した朝、母は台所へ立とうとした。
夫が椅子を引いた。
「今日は食べる当番」
薄い味噌汁を四人で飲む。
家族の本音は、母に休んでほしいという願いだった。
見えなくなったから知ったのではない。
見えない間にも、自分の席が残されていたから信じられた。