鍵を替えた相続人
独身だった叔父・嘉門の家へ、折原伊吹は八年間通った。買い物、服薬、入浴、夜間の見守り。叔父の弟たちは「子どものいない兄貴の財産はいずれ俺たちのもの」と言いながら、介護の相談には電話さえ出なかった。
嘉門が亡くれた翌朝、従兄の篤志が賃貸マンションの鍵を替えた。
「叔父さんの弟である親父が相続人だ。姪のお前は出ていけ」
管理会社の金庫から合鍵を持ち出し、入居者へ新しい振込口座まで通知した。伊吹が止めると、「介護のお礼が欲しいなら十万円やる」と封筒を投げた。
三日後、マンションの集会室で相続人たちが集まった。篤志は最上席に座り、売却査定書を配る。十二億円という数字に、介護を断り続けた親族の声が急に明るくなった。
伊吹は末席で、叔父から預かった青いファイルを開いた。
「その建物は、叔父の遺産ではありません」
笑いが起きた。だが同席した信託会社の担当者が、登記事項証明書を映し出す。嘉門は認知機能が落ちる前に家族信託を組み、マンションを信託財産へ移していた。生前の受益者は嘉門、死亡後の受益者は伊吹。伊吹は介護と建物管理を担う受託者でもある。
「弟さん方が相続するのは、普通預金と家財です。マンションは遺産分割の対象外です」
篤志の顔色が変わった。
「そんな契約、老人をだまして作らせたに決まってる」
担当者は、医師の判断能力確認書、公証人立会いの映像、親族へ送付された内容証明を示した。受領印には篤志の父の名がある。彼らは当時、「介護を引き受ける気はないので好きにしろ」と返答していた。
さらに管理会社が、篤志の送った振込先変更通知を提出した。入居者の賃料を自分の口座へ移そうとした行為は、相続争いではなく、信託財産への侵害だった。
伊吹は十万円の封筒を篤志へ返した。
「叔父は、世話をしたから建物をくれたんじゃありません。任せられる人間を選んだんです」
信託会社の顧問弁護士が、鍵交換費、営業妨害、信用回復費を記した請求書を篤志の前へ置いた。
「新しい鍵は本日撤去します。あなたが替えたのは、玄関ではなく、ご自身の立場でした」