鍵穴は母の声で

大庭弥生の新居は、鍵を差すたび母の声で話した。

――そんな遠くへ行かなくてもいいでしょう。

――女の一人暮らしは危ないよ。

――ちゃんと食べてるの。

最初の二つは、引っ越し前に実際に言われた言葉だった。三つ目は、まだ電話でも聞いていない。

弥生が相談した〈耳塚不動産〉の耳塚伊織は、真夏なのに紺色の大きな耳当てをしていた。銀の缶から蝋の耳栓を取り出しながら、無表情に言う。

「声は、設備に含まれません」

「でも、玄関から聞こえます」

「玄関は口ではないので」

伊織は現地で鍵穴へ聴診器を当てた。弥生が鍵を回すと、母の声がした。

――今からでも帰ってきたら。

「お母さまが憑いているわけではありません」

「生きています」

「それは何よりです。この錠前は、入居者が置いてきた声を拾います」

弥生は春から、地方の出版社で働く。ずっと望んでいた仕事だった。母は最後には応援してくれたのに、反対された言葉ばかりが鍵穴に残っている。部屋へ入るたび、自分が薄情な娘になった気がした。

「声を消せますか」

「できます。ただし、嫌な言葉だけ選んで消すことはできません」

「全部でいいです」

伊織はすぐ作業せず、二つ目の補助錠を取り出した。録音式の古い錠前で、最初に入れた一言を、鍵を回すたび返すという。

「こちらを先に付けます。消すかどうかは、一週間後に決めてください」

「何を録音すれば?」

「置いていく声ではなく、これから使う声を」

弥生は迷い、鍵穴へ顔を近づけた。

「行ってきます。帰る日は、私が決めます」

録音を終えるまで、伊織は廊下の端を向いていた。弥生が泣いたことに気づかないふりをするためらしい。作業後には、防犯用の窓センサーまで「余ったので」と置いていった。

一週間後、弥生は元の声を消さないと伝えた。玄関で鍵を回す。

――ちゃんと食べてるの。

続いて、新しい錠前が弥生自身の声で答えた。

――行ってきます。帰る日は、私が決めます。

「うるさい玄関ですね」

弥生が笑うと、伊織は初めて耳当てを外した。母の声を確かめるように、静かに首を傾ける。

「声は、設備に含まれません」

「前にも聞きました」

「ええ。設備なら置いていくしかない。声なら、連れていっても構いません」