鏡の中の息子
鷲尾怜司が海外から帰国したのは、十五年ぶりだった。
赴任先の山岳地帯で土砂崩れに遭い、同僚は行方不明。怜司だけが生還した。長い療養のあと、彼は認知症になった母を訪ねた。
母はほかの親族を覚えていたが、怜司を見ると怯えた。
「あなたは誰」
「怜司だよ。帰ってきたんだ」
母は返事をせず、面会室の鏡を見た。
鏡の中の怜司へ手を伸ばし、うれしそうに笑った。
「怜司は、こっちにいる」
その日の母は日付も施設名も正しく答え、職員全員の名前まで覚えていた。ただ、怜司を名乗る男にだけは決して触れようとしなかった。
職員は申し訳なさそうに言った。
「鏡像を別人だと思う症状がありますから」
怜司は気にしなかった。
幼いころに飼った犬の名も、父の葬儀の日に降った雪も、母しか知らないはずの思い出も話せた。母はそれでも、目の前の彼ではなく鏡へ向かってうなずいた。
「右のほっぺの傷、まだ残ってるね」
怜司の傷は左頬にあった。
鏡の中では右頬に見える。
「左右を間違えてるよ」
そう教えると、母は首を振った。
「間違えているのは、あなた」
母は一か月後に亡くなった。
遺言の確認の日、弁護士は警察官を同席させた。
封筒には、母が施設で書いた紙と、小学校の卒業写真が入っていた。
〈息子の傷は右頬です〉
〈目の前の男には左頬、鏡の中の男には右頬にあります〉
〈だから鏡の中にだけ、怜司がいます〉
卒業写真の少年には、確かに右頬の傷があった。
警察官が、帰国した男の左頬を見た。
「事故で向きが変わる傷ではありませんね」
怜司を名乗る男は、無意識に傷を撫でた。
十五年前、山中で本物の怜司を谷へ突き落としたあと、彼は財布と旅券と携帯電話を奪った。履歴、メール、保存された手紙から人生を覚えた。
顔を似せるため、携帯電話に残っていた自撮りを見ながら、自分の頬を熱した金属で焼いた。
正面から撮られた卒業写真を見つけたのは、その日が初めてだった。
自撮りが鏡像保存されていたことを、母だけは一目で見抜いていた。