鐘が忘れる顔
断頭台の鐘には、執行を延期する力があった。
一度鳴らせば一刻、時が止まる。その間に新しい証拠が届けば判決は覆せる。だが鳴らした処刑人は、大切な者の顔を一つ忘れる。
カイネスは鐘楼の綱を握ったまま、広場を見下ろした。処刑台では薬師エルダが首枷に固定されている。井戸へ毒を入れた罪。証拠は彼女の薬瓶だけだった。
一度目の鐘を鳴らした。
風も鳩も止まり、群衆の口が開いたまま凍る。カイネスだけが階段を駆け下り、薬瓶を嗅いだ。毒ではない。熱病を抑える苦草だ。
時が戻ると同時に、彼は母の顔を失った。声も手の皺も覚えているのに、そこだけ白く塗り潰されていた。
「証拠が足りない。延期を」
判事は首を振った。薬瓶の底から王家の印が出たという。カイネスは二度目の鐘を鳴らし、止まった兵の懐を探った。印を押すための蝋型が見つかる。仕組まれた証拠だった。
時が戻る。今度は妻の顔が消えた。昨夜、眠る前に笑っていたはずの人が、記憶の中で首から上だけ霧になった。
蝋型を掲げても、判事は兵の私物だと言い張った。背後の貴族席で、領主が退屈そうに欠伸をしている。井戸を汚したのは、流行病を理由に貧民街を焼くためだ。薬師はそれを知ったから消される。
三度目の鐘を鳴らせば、娘の顔を忘れる。
城門の向こうから、小さな影が走ってくるのが見えた。娘がエルダの帳簿を抱えている。だが執行人はもう刃を上げていた。
カイネスは綱を引いた。
止まった世界を、娘のもとまで走る。帳簿には領主が毒を買った記録があった。彼はそれを判事の机へ置き、娘の頬に一度だけ触れた。
鐘が鳴り終わる。世界が動き、告発は広場を覆した。
エルダの枷が外され、領主が拘束される。歓声の中、娘が鐘楼へ駆け上がった。
「父さん!」
カイネスは優しく笑い、その小さな肩へ手を置いた。
「迷子かい。君の家族は、どんな顔をしている?」
娘は泣いた。彼の目には、泣いている理由すら分からない少女しか映っていなかった。