閉店まであと九分
壁の時計が二十一時五十一分を指すと、店主が「ラストオーダーです」と告げた。
小春と岳は、窓際の二人席に七年座ってきた。仕事を辞めたい夜も、失恋した朝も、どちらかが〈いつもの店〉と送れば、ここで会えた。
その店が、今日で閉まる。
「次、どこにする?」
岳がメニューを閉じた。
「また今度、探そう」
「また今度って、来る?」
「来るでしょ。友達なんだから」
岳はミルクの入っていないコーヒーを混ぜた。考え事をするときの癖だった。
「小春、先月から俺と二人になるの避けてない?」
「忙しかっただけ」
「婚活始めたって話をした日から」
「応援してるよ」
それは嘘ではない。岳は子どもが欲しいと言っていた。休日の公園で、知らない子の飛ばしたボールを拾い、自然にしゃがんで返す人だった。
小春は子どもを持たないと決めている。理由を弁明するつもりも、岳に諦めさせるつもりもなかった。だから好きだと伝えることは、選択を迫ることに思えた。
「応援されると困る」
「どうして」
「小春が候補から降りたみたいに聞こえるから」
「最初から候補じゃないよ。友達だもん」
「俺は、候補にしたかった」
店内の照明が一列消えた。あと五分。
小春は伝票の端を指で折った。逃げれば、岳はきっと追わない。その優しさまで知っている。
「私、子どもは欲しくない」
「知ってる」
「岳は欲しい」
「うん」
「だったら、言わないほうがいいこともあるでしょ」
「好きって言われたら、今日ここで人生決めなきゃいけないの?」
小春は顔を上げた。
岳は笑わずに続けた。
「違う未来を考えてることと、今の気持ちを黙ることは、同じじゃない」
「でも、また今度じゃ遅くなるかもしれない」
「だから今日聞いた」
店主がレジを締め始める音がした。
小春は鞄からペンを出し、伝票の裏に次の土曜日の日付を書いた。その下に、駅前の喫茶店の名前を添える。
「また今度、じゃない」
「うん」
「来週、続きを話す。都合の悪いことも、全部」
伝票を岳の前へ滑らせ、小春は自分のスマートフォンから婚活の相談に乗ると送ったメッセージを削除した。
店の灯りが最後まで消える前に、二人は次の席を予約した。