開かなかった貝

榎並実李が父の店の暖簾をくぐったとき、時計は午前零時四十分を指していた。

閉店後のカウンターには椅子が一脚だけ戻されずにいた。実李の席だった。父は挨拶もせず、あさりの味噌汁を出した。潮の匂いがふわりと上がり、貝殻の触れ合う乾いた音が器の底で一度だけした。

実李は、明日の朝には東京へ戻る。父の店を継がないと伝えるために帰ってきたのに、結局、三日間も皿洗いをして終わった。

母が亡くなってから、父は一人で店を続けている。腰も痛むらしい。常連は会うたび「娘さんが戻れば安心だ」と笑う。そのたび実李も笑い、デザイン会社を辞めて帰る予定などないことを飲み込んだ。

東京では新しい案件の責任者に選ばれた。嬉しかったのに、父へ報告する文章だけは書けなかった。店を継がないことより、別の場所でうまくいき始めたことのほうが、残酷に思えたからだ。

帰省中、父は一度も将来を尋ねなかった。代わりに昔の前掛けを洗って干し、実李の身長に合う位置へ紐を結び直していた。その親切が、答えを待つ準備に見えた。

味噌汁のあさりは、ほとんどがきれいに口を開いていた。実李は身を外し、一つずつ食べた。父は向こうで包丁を研いでいる。何も聞かない背中が、かえって答えを求めているように見えた。

最後に一つ、閉じたままの貝が残った。

箸でつついても開かない。以前の父なら「無理にこじるな。死んでいるかもしれん」と言ったはずだ。実李はその貝を器の端へ寄せ、味噌汁を飲み切った。

父が包丁を置き、器を下げに来た。閉じた貝を見つけると、指でつまみ、ためらいなく殻入れへ落とした。

「開かんものは、開かせなくていい」

実李は鞄から店の合鍵を出した。これを返せば、父は全部察する。カウンターに置くと、父は布巾で水滴を拭き、その鍵を実李の側へ押し戻した。

「これは店の鍵じゃない。裏口のだ」

短い言葉のあと、父は器を洗い始めた。

実李は閉じた貝だけが残された殻入れを見た。継がないという答えは、親不孝の証拠にはならなかった。開かなかったものを捨てても、帰るための入口までなくなるわけではない。

合鍵を鞄へ戻す音は、さっきの貝殻よりもずっと軽かった。